近藤一樹インタビュー 後編勇退する「恩師」日大三高の小倉全由監督について(インタビュー前編:「ヤクルトから戦力外通告を受…

近藤一樹インタビュー 後編

勇退する「恩師」日大三高の小倉全由監督について

(インタビュー前編:「ヤクルトから戦力外通告を受けた時点で現役ではない」引退宣言しない理由を明かした>>)


2001年夏の甲子園で優勝し、胴上げされる小倉監督

「泥臭く」「練習はウソをつかない」と諭してくれた小倉全由監督】

 長年にわたり、日大三高で指揮を執った小倉全由監督が、3月いっぱいで退任することが決まった。2001年夏、初めて全国制覇を成し遂げた時のエースが、近鉄バファローズに入団し、その後はオリックス、ヤクルトで活躍した近藤一樹だ。彼が小倉監督から教わったことは「自分に嘘をつくな」という教えだったという。

「言葉で直接言われたわけではないんです。でも、小倉監督はご自身が高校時代にレギュラーでなかったり、大学時代は野球部に入部していなかったりしていたから、その言葉には、普通の人とは違う説得力があるんです。例えば、『レギュラー選手は、控え選手の気持ちをきちんと理解しているのか?』とか、『どこで誰が見ているかわからないのだから、気を抜かずにいろ』とか、何度も言われました。こうした言葉を通じて、僕は『自分に嘘はつくな』ということを学んだ気がします」

 小倉が好んだのは、たとえ結果が出なくても決して腐ることなく、泥臭く、必死に練習を続ける選手だったという。口癖のように「泥臭く」と言っていたことを近藤は記憶している。

「監督は『練習は嘘をつかない』という言葉が大好きでした。そして、いつも『泥臭く』と口にしていました。監督自身が試合に出られない時でも、いつもその思いを持っていたそうです。監督が歩んできた道とその言葉がすごく一致しているので、余計に強く印象に残っていますね」

 高校入学時、近藤らの代は20名ほどが在籍していて、その半数が投手だった。数は揃っていたものの、自身も含めて「実力的にはまだまだだった」と近藤は振り返る。

「正直言えば、『え? これで勝てるんかな?』っていう、そのくらいの実力でしたね。高校の1学年ってすごく差があるものですけど、僕が1年生の時は2年生はすごいし、3年生はもっと"化け物"みたいな選手ばかりでした。だけど、最上級生だった3年生はセンバツで甲子園に出たけど、すぐに負ける。ひとつ上の学年はそれぞれの実力はすごいのに、試合では勝てない。『じゃあ、オレらはどうするんだよ?』っていう状態でしたね」

 近藤は高校入学直後、すぐに故障した。本人は「ケガさえなければベンチ入りできていたはず」と振り返る。小倉もまた、近藤のポテンシャルを評価していたという。しかし、食が細く身体ができていない状態でヒジを故障してしまっていた。

「結果的に、その後のプロでもそうだったんですけど、自分の長所は短所でもあったんです。もともと、"身体を柔らかく使える"というのが僕の長所なんです。可動域が広いから、独特なヒジの使い方ができて、人とは違うボールが投げられる。でもその分、自分の身体を上手に使えずに故障してしまう。そんなことの繰り返しでした」

【「根拠のない勘違い」を経て、チームは急成長】

 高校入学時は「これで勝てるんかな?」というレベルだった。しかし、高校2年の夏、近藤自身も、そしてチームも一気に急成長を遂げることになる。

「ひとつ上の代の先輩たちがなかなか勝てずに、すぐに負けてしまったんです。そうなると、僕たちの代が中心となる新チームはめちゃくちゃ夏が長いんですよ。甲子園まで行けば、8月半ばまで大会が続くから、夏休みの練習期間も短くて済むのに、僕らの代は7月から1カ月半くらい猛練習でしたから。

 監督も必死でしたよ。実力ある3年生が勝てないんだから、僕ら2年生が勝てるはずがない。きっと、そう思ったんだと思います。もう、めちゃくちゃ練習しましたから(笑)」

 猛練習の結果、個々の選手たちの実力が急激に上がった――。こちらがそう理解していると、近藤は「いや、そうじゃないんです」と笑顔になった。

「決して、上手になったわけじゃないんです。むしろ、ただ単に根拠のない勘違いをしただけなんです(笑)。本当にめちゃくちゃ練習したから、一人ひとりが勝手に『こんなに猛練習するチームは他には絶対にない』という気になっていました。それで、ひとりが頑張ると、もうひとりも『オレも頑張ろう』となっていって。全寮生だったので、なおさら効果も出てきました。その結果、根拠のない自信が生まれて、実際に試合でも勝ち始めていったんです」

 基礎体力作りでは、仲間が10本ランニングをするなら自分は11本走る。自主練習において、ライバルが30分汗を流すならば、自分は1時間グラウンドに残る。そんないい相乗効果が生まれていた。のちにプロ入りする内田和也、千葉英貴、都築克幸らも切磋琢磨していくなかで、近藤たちの代は着実に力をつけていく。そしてついに、2001年夏、日大三高は甲子園出場を決めたのである。

「1回戦は鹿児島の樟南高校でした。抽選会でキャプテンがくじを引いた時、みんなキレたんです。『いきなり樟南高校かよ』『絶対に勝てるはずがない。1回戦で負けるのかよ』って。でも、いざ対戦した時に、『あれ?』って思ったんです......」

 試合開始直前、相手高校を前に整列した瞬間のことだった。

「......相手と向かい合った時に、なぜだかわからないけど、『あれ、勝てそうだな』って思ったんです。それも、何も根拠がないんですけど、確かにそう思ったんですよね。僕自身も痩せていたくせに、相手選手を見て、『みんなひょろひょろだな』って思ったんです(笑)。そこからは順調に勝っていきました」

【はたして、小倉監督の発言の真意は?】

 1回戦は樟南高校に11対7で勝利した。続く2回戦は花咲徳栄高校を11対4で撃破し、3回戦も日本航空高校を7対1で倒した。伝統的に打撃が強い日大三高は、この代も猛打を誇る攻撃的なチームだった。準々決勝は明豊高校に9対2で勝利して、準決勝は横浜高校と対戦することになった。

「チームは順調に勝ち進んでいたんですけど、僕自身は2回戦の花咲徳栄戦が大ピンチでしたね。僕は初回からボコボコに打たれてノックアウトされました。二番手がしっかり抑えてくれたので、何とか逆転できたんですけど......」

 準決勝の横浜高校戦では、序盤こそ大量リードで優勢に進めていたものの、小さなミスや横浜の粘り強い攻撃によって、一度は同点に追いつかれた。それでも何とかサヨナラ勝ちで決勝に進んだ。

「僕らの代は関東大会でも、大量リードをしていたのに、イレギュラーによるバント処理のミスから大量失点を喫してしまうようなことが何度かあったんです。でも、何とか横浜高校に勝って、決勝では近江高校にも勝つことができました。確かに練習試合でも、ほとんど負けていなかったので『強くなった』とは思っていたけど、自分たちが本当に強いのかどうか実感はないままでの優勝でした」

 近藤たちの代による見事な勝利は、小倉監督にとっても初めての全国制覇となった。あらためて、当時のことを振り返ってもらった。

「今でも忘れられない光景があるんです。僕たちの代はセンバツにも出場しているんですけど、その時は1試合に3つのエラーをした選手もいて、あっさり負けてしまった。その日の夜、宿舎でのミーティングでのことなんですけど、監督が僕らを前に、『お前らなら全国でトップになれる』って言ったんです。試合に負けた日に言われたし、実際にその年の夏に全国制覇を果たしたので、この言葉はすごく印象に残っています」

 どうして、小倉監督がそんなことを口にしたのか、今でもその理由を知らない。恩師は、今年3月末限りでの勇退を決めた。近藤もまた、この春は以前と比べてゆっくりと今後について考える時間も生まれた。今春、それぞれが新しい環境を歩み始めることになった。だからこそ、「どうして、あの時そんなことを言ったのですか?」と尋ねてみたい思いがある。

「......いや、もう昔のことだから忘れているかもしれないですね(笑)。あれはみんなを励ますためだったのか、それとも本当に何か感じることがあったのか......。もしタイミングが合えば、ぜひ聞いてみたいですね」

「打たなきゃ面白くない。フルスイングで遠くへ飛ばせ」という号令の下、徹底的にバットを振り込んだ。甲子園史に残る「打のチーム」を率いた小倉監督の下で、初めて全国制覇を成し遂げた時のエースが、長年の疑問を恩師に問う機会ははたしてやってくるのだろうか。