小平奈緒インタビュー(前編) 現役ラストレースとなった昨年10月22日の日本距離別選手権女子500mで、小平奈緒(相澤病院)は、2位の髙木美帆に0秒69差をつける37秒49で有終の美を飾った。北京五輪シーズンだった前年の優勝記録を0秒09上…

小平奈緒インタビュー(前編)

 現役ラストレースとなった昨年10月22日の日本距離別選手権女子500mで、小平奈緒(相澤病院)は、2位の髙木美帆に0秒69差をつける37秒49で有終の美を飾った。北京五輪シーズンだった前年の優勝記録を0秒09上回る結果は、まだまだ世界で十分に戦える実力を見せつけるものだった。

 そのたった37秒のレース1本のためだけに、例年と変わらず夏も厳しい練習を積み上げてきた。そんな彼女の表情はキラキラと輝いて、好調そのものを表していた。改めて本人に聞くと、「ベストの体調でした」と明るく答える。


北京五輪直前のケガに苦しみながらも滑りきった小平奈緒

 photo by JMPA

 そんな小平の最後の五輪だった2022年北京大会。大会直前の捻挫に、これまで彼女を見続けてきた周囲もショックを受け、「なんでこのタイミングなんだよ」と恨みたい気持ちにもなるほどだった。

「私も『なんでここだろう』と思いました。せっかく調子が戻ってきて、『かなり戦える状態だな』と感じていたし、1月になってすごくいい練習ができていたところだったので......」

 それは、歩き慣れているはずの雪道で起きた。

「雪が積もっているほうが近道だったけど、そっちは危ないと思って、きれいに雪かきをしてくれていたところを歩いたら氷になって、その上に薄ら雪が積もっている状態でした。安全な道を行こうと思ったのが仇になってしまった。結城(匡啓)先生は『何を試されているんだろうと思った』と言っていたけど、私もそう思いました」

 それでも小平らしく、現状を受け入れて前を向いた。

「起きてしまったことはもう仕方ないので、五輪のレースギリギリまで逆足の構えでスタートしたり、テーピングをしたり、いろいろ試しました。100m過ぎからのラップライムは出ていたし、レース前のタイムトライアルでもわりといいタイムが出ていたけど、唯一できなかったのが、いつもと同じスタートでした。その時はもう、ごまかすのではなく受け入れて、どんな表現ができるかに徹しようと思って。偽った自分で戦うと、あとで後悔するなと思いました」

【迎えた最後のオリンピック】

 北京五輪の500mは、スタートで左足が氷に引っかかるアクシデントもあり、100m通過は絶好調時より0秒4以上遅い10秒72。ゴールタイムは38秒09で17位だった。そして1000mは、1分15秒65で10位という結果だった。

「五輪期間中、1000mが終わる日までずっと苦しかったですね。結果が出ないことは自分が一番知っていたので。でも、自分らしく戦う決心というか、それ以外のことができなかったので逆に諦めがついたというか。自分ができる最大限のことは、『私が私で戦うこと』だと思っていました」

 その姿は多くの人を勇気づけた。

「私が私で戦えたことで、自分を隠して生活していた人たちが、『私らしく生きていいんだというふうに思えた』と手紙をくれて。それはスポーツが示してくれる影響のひとつかなと思いました」

 小平が出場した4回の五輪を振り返ると、結果はもちろんすべて表情も違っていた。初出場の2010年バンクーバー五輪は、チームパシュートで銀メダルを取り、1000mと1500mで5位になったものの、自信がなさそうな顔。そして14年ソチ五輪は、調子が上がらず不安そうな表情だった。金1銀1を獲得した18年平昌五輪は自信にあふれ、最後の北京五輪は元気がなかった。

「確かにそうですね。五輪は一番ありのままで、人間らしかったかもしれません」と笑顔を見せる。

【『数字イコール私の評価』みたいな感覚】

 平昌五輪前からは500mの連勝記録が注目され、19年世界距離別選手権で敗れるまで、国際大会28連勝、国内外で16年9月から37連勝を記録した。だが19年から股関節に違和感が出て苦しい時期も続いた。北京五輪シーズンは、そこからようやく立て直してきたところだった。



現役時代の振り返りから引退後の現在についても語ってくれた

「股関節を傷めるまでは連勝が続いていたので、数字に関して問われることが多かったのですが、すごく違和感がありました。『数字イコール私の評価』みたいな感覚で、連勝が途切れると、それがその人の価値のように突きつけられる。『何か違うな』と思いました。その時に考えたのが、ラストレースの時の場内インタビューでも言った『自分の価値を数字で決めることはよくないし、人の価値を数字とか優劣で判断しないでほしいと子供たちに伝えたい』という言葉です。数字とか優劣では見えないところに人のよさはあるんだよ、というのを伝えたいと思っています。

 人から『○○ちゃん、こういうところが得意だね』と褒められて自分のよさに気がついたり、『こういうところで頑張っているね』という言葉に励まされたりとか。そういう言葉で自信を持つことが、人間として育っていくことになると思います」

 数字だけで計られたくないという小平だが、見ている側としては、17年に1000mで実現したように、500mの世界記録を更新して欲しかったという思いはある。それを狙った19年3月のW杯ファイナル・ソルトレークシティ大会では、世界歴代2位の36秒47など36秒4台を連発。翌週のカルガリーは男子と同走非公認レースで36秒39を出したが、李相花(韓国)の36秒36には届かなかった。

 しかし、その時はすでに、股関節に違和感があり、片足ではスクワットもできない状態だった。

「そこは巡り合わせというのもありますし......。でも平昌五輪の標高41mのリンクで出した36秒94の低地世界最高記録は、標高1000m以上の高地換算をすれば、十分に世界記録に達していると思えたので。世界記録という数字が自分の肩書きになってしまうよりは、世界記録を目指すレベルで戦えたというので十分じゃないかと思えました。

記録は塗り替えられるし、人の記憶にも順位や記録はあまり残らないのかなと思います。今はどこへ行っても平昌で金メダルを獲ったことよりも、李相花との抱擁シーンのほうを言われることが多くて。小学生に『相花選手とのエピソードを教えてください』と言われて。金メダルじゃないんだなと思えるところが逆にうれしいというか、肩の荷が下ります」

【最後のレースは長野で】

 北京五輪シーズンに入る前の夏には、翌年のシーズンの(五輪後に)長野で開催される競技会で、競技をやめると決めていた。本来なら北京で結果を出し、最後は自分を育ててくれた長野市のエムウエーブで滑ろうと思っていた。19年以降、体に違和感があってからは自分と向き合い、3年ほどかけしっかりやり遂げられる状態までもってこられていたからだ。そして、その思いは北京五輪直前のケガ後も変わることはなかった。

「お祭りで終わるのではなくて、本当にアスリートとして戦う姿で駆け抜けたかったんです。だからその1レースのための凝縮した時間をすごすのは辛いとは思いませんでした。それまでも『この動きがスケートにつながる』と思えば、どんな練習でも楽しくできていたけど、1シーズン分というか、自分の競技人生を包み込むようなレースというか......。それを500mの1本にすべて凝縮させられたら最高じゃないかと思いました」

 エムウエーブと言えば、小平が子供の頃に見た98年長野五輪のスピードスケート会場であり、その時に感じた熱をもう一度作り上げることができたら、それが恩返しになるのではという思いもあった。

「世界のトップレベルで十分戦えるタイムで終われたのは、『ああ、よくやれたな』とも思うし、自信を持ってやめられるなとも思いました。だから平昌の36秒台より、ラストレースの満足度のほうが高いかもしれませんね。あの空間は平昌でも作れなかったものだったし。私が主役でみんなが自分を見てくれたというより、駆けつけてくれた人たちそれぞれ主役で、会場にいたみんなであの空気感を作り上げた感じです。

 それにエムウエーブで大会をやると、長野五輪の時に結成された"エムウエーブ友の会"というボランティア団体があって、関係者のIDチェックやゴミ拾い、片づけをやってくれている。私も小学校の大会からそういう人たちにお世話になっているけど、これまではガラガラの観客席で、『長野五輪の熱はどこに行ったのだろう』という気持ちになっていたと思います。そういう人たちに恩返しじゃないけど、夢の舞台を支えてくれていた人たちにもう一度、当時を思い出すようなプレゼントができたのではないかと思っています」

 こうして最高の形で最後のレースを終えた小平奈緒が、引退後に歩んでいる道、またこれから描いている未来とは――。後編では、現在とこれからについて聞いていく。

後編:「注目される生きづらさのなかで見つけた人とのつながり 今後の新たな挑戦」>>

Profile
小平奈緒(こだいら なお)
1986年5月26日生まれ。長野県出身。
3歳からスケートを始め、中学2年で全日本ジュニアの500mで優勝すると、高校でも500m、1000mでインターハイ2冠達成など力をつけていった。信州大学進学以降は、結城匡啓コーチに師事し、バンクーバー五輪ではチームパシュートで銀メダル、平昌五輪では、500mで金メダル、1000mで銀メダルを獲得し、日本だけに留まらず女子スピードスケート界を代表する選手となった。北京五輪後の2022年10月の引退レースとなった全日本の500mでは、見事優勝を飾っている。