バレンズエラにスクリューボール教わるも「お話にならなかった」 スクリューボールは元中日投手・山本昌氏の大きな武器だった。…

バレンズエラにスクリューボール教わるも「お話にならなかった」

 スクリューボールは元中日投手・山本昌氏の大きな武器だった。プロ5年目の1988年、ドジャース留学中に習得した。その後の野球人生を考えれば、この球種があるか、ないかで大違い。そう言っても過言ではないだろう。実はこれも、失敗からスタートし、人との出会い、タイミングなど様々な条件が重なってできたことでもあった。場合によっては「僕のスクリューはなかったかもね」と振り返るほどだ。

「スクリューを覚えたのもきっかけはアイク(生原)さんだった」。ドジャースのエースでスクリューボールが有名だったフェルナンド・バレンズエラ投手のピッチングを見ようと、ドジャースのオーナー補佐を務めていたアイクさんが連れていってくれた。

 本人から直々にスクリューの握りも投げ方も教わった。「バレンズエラに『こうやって投げるんだよ』ってね。でも、全然お話にならなかった。できなかった。指にしっくりこないというか、抜けるし、ストライクは入らないし、変化しないし、3拍子ですよ、もう」。

 山本氏の野球人生では最初駄目、失敗のパターンは実に多いが、それとともに簡単にへこたれないのも共通項だ。この時もそうだった。「悔しかったんだろうね。その頃から毎日、ずっとボールを手にしていた。遠征のバスに乗っても、クラブハウスにいても、外野で球拾いする時もボールを片手に持ってね。風呂以外、ほとんどかな」。そんな時に見たのが、1Aベロビーチのチームメート、ジョセフ・スパニュオーロ内野手のスクリューボールだった。

メキシコ人野手から握りを学び「いけるかもと思った」

 メキシコ人のスパニュオーロはキャッチボールで投げていた。「握りを聞いてやってみたら、あれっ、いけるかもと思った」。バレンズエラとは違う握りだったが、試合でもすぐに使えるようになった。「普段、ボールを握っていたから、指につくようになったのかな。手で回したり、挟んだり、いろいろやっていたのが良かったのかな。不思議だったね」。

 恩人のスパニュオーロはその後に解雇され、チームを去った。もしも、教えてもらう前にそうなっていたら「僕のスクリューはなかったかもしれない」と山本氏は言う。この恩人の消息は不明という。「以前に、テレビ番組に頼んで探してもらったんだけど、メキシコで郵便局員をやったところまでは調べられたんだけど、その先がわからないまま。年は僕と一緒か1つ下。僕が日本で50まで投げたなんて絶対知らないよね」。忘れられない人物の一人だ。

 スクリューを身につけた山本氏は1Aベロビーチの先発ローテーション投手に成長した。1Aのオールスターゲームにも出場した。アメリカ生活にも慣れた。体重は12キロも増えた。「ホットドッグとコーラで太った。球場にある販売機は全部炭酸だし、どこに行っても水を探すほうが大変だった。くそ暑くて飲む量も多くなる。ラージサイズに何杯も。そりゃあ太るよね」。白星も積み重ね、13勝でリーグトップを走っていた。そんな時だった。

「マイアミ遠征中に、アイクさんがいきなり部屋に来て『ヤマ! 日本に帰るぞ。星野が帰って来いって言っているぞ』って言われたんです」。山本氏は即答したという。「嫌です」と。これには深い理由もあった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)