通算219勝山本昌氏は練習に必死に取り組むも4年目まで未勝利 プロ1年目から4年目までは1軍で0勝。毎年、クビを心配して…
通算219勝…山本昌氏は練習に必死に取り組むも4年目まで未勝利
プロ1年目から4年目までは1軍で0勝。毎年、クビを心配していた左腕が50歳までプレーし、通算219勝をマークした。元中日投手の山本昌氏の野球人生は、まだまだくすぶっている若い人にも、諦めかけている年配の人にも希望を抱かせるものだろう。今回は初期の時代を振り返ってもらっているが、その頃は何を心掛けていたのか。恩師・星野仙一監督との“出会い”によって、劇的に変わっていった立場、状況。その生き方にいろんなヒントが隠されている。
結果が出なかった最初の4年間。山本氏は「当時のことを振り返ったチームメートの方たちは『山本は正直、一緒に飲みに行っても門限になったら、俺帰るわって帰っちゃった』という人が多いですね」と話す。実際、そうだった。周囲が「いいじゃん、別に」と誘っても「いや、帰る」と頑な。猛烈に真面目だったわけだ。
「その辺は付き合いが悪かったんでしょうけど、やっぱり、地元とか家族の期待を背負っているから、練習に支障があったらいけないなってね。門限は午後10時半だったんで(名古屋の繁華街)栄とかにいても、10時にはタクシーに乗って帰るようにしていましたね」。練習は手を抜かなかった。何事にも、必死の形相で取り組んだ。
「化け物みたいな体力はついたね。足も速くなった。50メートル7秒2とか、3だったのが6秒フラットになった。毎日50メートルを20本、30本とタイムをとっていたら速くなるよ」とサラリと話したが、これも努力の証しには違いない。しかし、山本氏はこうも話す。
「先輩に『お前、そんなに一生懸命やってもうまくならないぞ』って言われて、じゃあどうすればいいんだって悩んだこともありました。今思えば、確かにあれではうまくならない。何も考えていなかったもんね。言われたことをやっていただけで」
星野中日1年目の1987年…キャンプでアピールし、開幕1軍を掴んだ
知らないことも多かった。「牛島(和彦)さんにもかわいがってもらって、いろんなことを教えてもらったんですけど、その頃は『はい』って返事しながら、何を言われているのか、よくわからなかった。自分が勝ち始めた頃になって、牛島さんはあの時、こういうことを言っていたんだってわかるようになったんですけどね」。まさに下積み時代。真面目さも含めて、すべてが役に立ったのは間違いない。勉強になり、経験になり、成長につながった。
そんな中で星野監督に出会った。1986年の浜松秋季キャンプ。ブルペンで投げていたら、就任したばかりの若き指揮官が近づいてきた。アピールしなければと力が入った。すると「おい34番! いつになったら本気で投げるんだ」と声を掛けられた。「『あのぉ、全力です』と答えたら『そうか』って。たぶん、ガクッと来たんでしょうね」と山本氏は苦笑する。
それでもくじけなかった。プロ4年目の1987年の春のキャンプでは毎日、ブルペンで投げ込んだ。「ブルペンに入らなかった日はなかった。(トータルで)3000球は放ったんじゃないかな。今では考えられないけどね」。星野監督はそんな姿をちゃんと見ていた。開幕1軍切符をつかみ、4月10日、開幕カードの巨人戦(後楽園)では2番手で登板。翌4月11日の2戦目も2番手で登板した。だが、その年、3試合目の登板となる4月14日の広島戦(ナゴヤ球場)でアクシデントに見舞われた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)