藤波辰爾が語る武藤敬司(4)髙田延彦に仕掛けたドラゴンスクリュー(連載3:グレート・ムタは引退発表後のアントニオ猪木にも忖度なし。「武藤には自分より上のレスラーはいないという自負があった」>>) 2月21日に東京ドームで引退する武藤敬司は、…

藤波辰爾が語る武藤敬司(4)

髙田延彦に仕掛けたドラゴンスクリュー

(連載3:グレート・ムタは引退発表後のアントニオ猪木にも忖度なし。「武藤には自分より上のレスラーはいないという自負があった」>>)

 2月21日に東京ドームで引退する武藤敬司は、1984年10月5日のデビューからの38年4カ月で新日本、全日本プロレス、WRESTLE-1、プロレスリング・ノアを渡り歩いた。さらに、化身のグレート・ムタとして米国でヒールを極め、「武藤」と「ムタ」ともに頂点に君臨した。

 そんな武藤のレスラー像と素顔を藤波辰爾が証言する短期連載。その第4回は、武藤自身も「ベストバウト」と語る1995年10・9東京ドームでの髙田延彦戦。武藤が藤波のオリジナル技、ドラゴンスクリューも出した試合をどう見ていたのかを明かした。



1995年10・9東京ドームで、髙田にドラゴンスクリューを仕掛ける武藤

***

 武藤vs髙田は、新日本プロレスとUWFインターナショナル(Uインター)の全面対抗戦メインイベントで実現した。

 当時、新日本とUインターはリング内外で衝突していた"犬猿の仲"。プロレスファンは、両団体が交わることなどあるはずがないと思っていた。そのふたつの団体が激突することが決定し、チケットは瞬く間に完売。ドームは6万70000人の超満員札止めとなった。

 対抗戦は全8試合。セミファイナルの橋本真也vs中野龍雄まで、新日本が4勝3敗で勝ち越していた。迎えたメインイベントは、武藤が持つIWGPヘビー級王座に髙田が挑戦する形だった。そのエース対決は、武藤が足4の字固めでギブアップを奪う劇的な勝利。のちに武藤は、この一戦をプロレス人生の「ベストバウト」と明言しているが、多くのファンの間でも伝説として語り継がれている"最高傑作"だ。

 この一戦で武藤は、足4の字を決める前に相手のミドルキックを掴み、ドラゴンスクリューで髙田の膝を負傷させた。フィニッシュが"これぞプロレスの技"という足4の字だったことも衝撃だったが、高速回転で髙田を這いつくばらせたドラゴンスクリューのインパクトも鮮烈だった。

【「俺のドラゴンスクリューよりがきれいじゃないか」】

「ドラゴン」の名がついたこの技は、藤波のオリジナル技だった。この対抗戦が行なわれた当時の藤波は、新日本内部で自らが理想とする「古き良き時代のプロレスの復活」をコンセプトとした独立組織「無我」の旗揚げ戦が迫っていたため、Uインターとの対抗戦からは距離を置いていた。

 ただ、武藤が髙田を破った一戦は鮮明に記憶しており、ドラゴンスクリューが決まった場面も目に焼きついているという。そして、武藤が自身のオリジナル技を"盗んだ"ことへの思いをこう明かした。

「『俺の技じゃないか』と思うことはありましたけど、まったく悪い気はしませんでした。おそらくアントニオ猪木さんも、自分の必殺技のコブラツイストを他のレスラーが出したとしても、『この野郎、俺の技をやりやがって』なんて思わなかったはず。あの頃は、僕もドラゴンスクリューを頻繁に使っていたわけではなかったから、武藤が髙田戦で出してくれたおかげで、あの技が光を浴びることになってよかったと思います」

 さらに藤波は、技の完成度についても言及した。

「武藤は、ずっと柔道をやってきた身のこなしがあるから、投げ技は誰よりもきれいでした。だからドラゴンスクリューも美しく見えましたよ。それは、武藤本人にも言ったことがあるんです。『俺のドラゴンスクリューより、お前のほうがきれいじゃないか』って(笑)」

 藤波がこの技を習得したのは1978年1月23日。ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を奪取する直前だった。フロリダ州タンパに住むカール・ゴッチの自宅での特訓で、ゴッチから伝授されたものだという。

「この技は、アマチュアレスリングの技のひとつなんです。タックルで相手の足を掴んで股にはさみ、回転しながら投げる。ゴッチさんからはそう教わりました」

【技の入り方の違い】

 ゴッチ直伝のその技は、ニューヨークでベルトを奪取し、凱旋帰国したあとに実戦で使うようになった。当時は同じ技を使う選手がほとんどいなかったため、藤波のオリジナル技と認知され、ニックネームの「ドラゴン」を冠にしてドラゴンスクリューと命名された。令和の今も技の名前は変わらず、多くの選手が使っている。

 ただ藤波は、自身と武藤では「ドラゴンスクリューの入り方が違う」と話した。

「僕はゴッチさんから教えられたように、相手の足の根元のほうを持って、両足に挟み込むようにして投げていた。一方で武藤は、相手のかかとのあたりを持って投げるんです。武藤の入り方だと、相手との間により空間ができるから、より自由な状態で回転できる。だから、よりダイナミックで派手に見えて、お客さんを惹きつけるんです。僕から見ても、武藤のドラゴンスクリューはうらやましいぐらい派手ですよ(笑)」

 この髙田戦以来、「ドラゴンスクリューからの足4の字固め」は武藤の必殺パターンとして定着した。

「武藤のセンスがあったからこそ、ドラゴンスクリューが一世を風靡したんでしょう。武藤じゃなかったら、あそこまでの技にはならなかったと思います。武藤にも『藤波さん、ドラゴンスクリューは僕がやったから世に出たんですよ』って言われたことがあるんです。確かにそうだと思いますし、反論はありません(笑)」

 さらに藤波は、格闘スタイルの「UWF」を足4の字で倒したことにも賛辞を送った。

「足4の字固めは、ザ・デストロイヤーの時代から、プロレスファン以外の人でもその痛さを知っているくらいの、プロレスの典型的な技です。その技でUWFを破ったことに価値がありました。もし、あの試合をムーンサルトプレスで決めていたら、今も伝説として語り継がれるような試合にはなっていなかったと思います」

 プロレス史に残る勝負を制した後、武藤は全日本に電撃移籍。以降もいくつかの団体を移り、長期欠場もありながら名勝負を重ねていった。そして60歳となった今、いよいよ引退の時を迎える。

(連載5:武藤敬司の全日本移籍時、新日本の社長だった藤波辰爾が明かす「驚きはなかった」本音。プロレス愛を貫いた「天才」の引退にメッセージを贈った>>)

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。