藤波辰爾が語る武藤敬司(2)前田日明らUWF勢との乱闘「熊本旅館破壊事件」(連載1:新日本の「別格の新人」だった武藤敬司。フルフェイスのヘルメットをかぶっての入場は「嫌がっていた」>>) 2月21日に東京ドームで引退する武藤敬司は、1984…

藤波辰爾が語る武藤敬司(2)

前田日明らUWF勢との乱闘「熊本旅館破壊事件」

(連載1:新日本の「別格の新人」だった武藤敬司。フルフェイスのヘルメットをかぶっての入場は「嫌がっていた」>>)

 2月21日に東京ドームで引退する武藤敬司は、1984年10月5日のデビューからの38年4カ月で新日本、全日本プロレス、WRESTLE-1、プロレスリング・ノアを渡り歩いた。さらに、化身のグレート・ムタとして米国でヒールを極め、「武藤」と「ムタ」ともに頂点に君臨した。

 そんな武藤のレスラー像と素顔を藤波辰爾が証言する短期連載。第2回は、武藤が前田日明と殴り合った「熊本旅館破壊事件」を振り返った。



1987年当時の武藤(左)と前田

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 1986年10月に米国から凱旋帰国し、「スペースローンウルフ」のキャッチフレーズとともに新スターとして華々しく売り出された武藤だったが、当時、新日本マットを席巻していたのは前田日明が率いるUWFだった。

 1984年4月に旗揚げしたUWFは、興行不振によって1年半で活動停止に追い込まれ、翌年12月に新日本との業務提携を発表。前田日明、藤原喜明、髙田延彦らが新日本にUターン復帰した。

 UWF勢は1986年1月から本格参戦したが、キックと関節技を軸にした格闘スタイルを全面的に押し出す攻撃に、新日本勢のなかには露骨に嫌悪感を示すレスラーもいた。それでも、前田は同年4月にアンドレ・ザ・ジャイアントを戦闘不能に追い込む"不穏試合"を展開。さらに10月には、キックボクサーのドン・中矢・ニールセンとの初の異種格闘技戦を、白熱の攻防の末に勝利した。

 プロレスに「強さ」を求める新日本のファンは、前田を"格闘王"と讃え支持していた。一方で興行的には、UWF勢の参戦が観客動員、テレビ視聴率に結びつかず、ファンの反応と新日本内部の受け止め方には乖離があった。

 そんな険悪な関係を改善しようと、当時、現場責任者で副社長だった坂口征二が両団体に会食を提案。1987年1月23日に行なわれた熊本県の水俣市体育館での試合後、市内の旅館で両団体の選手が一堂に会する宴席が催された。

【武藤が反抗した理由】

 目的は「親睦」だったが、事態は予想だにしない展開となった。前田の隣に座った武藤が、酔った勢いで「あんたらのプロレスつまらないんだよ」と断じ、殴り合いとなった。それを発端に他の選手も巻き込んでの乱闘に発展。旅館の壁、柱、トイレなどが壊され、新日本が弁償することになった。それが、現在もさまざまなメディアで語られる「熊本旅館破壊事件」だった。

 藤波も宴席に参加していたが、自分の食事を済ませて早々に自室に引き上げたため、乱闘の一部始終は目撃していない。ただ、当時の新日本内部でUWFへの不満が募っていたことはわかっていた。

「既存の新日本のレスラーにはUWFに対するアレルギーがありました。前田にしても藤原にしても、もともとは新日本で育った選手。かつて同じ釜の飯を食っていたのに、戻ってきたら格闘スタイルという違う路線で新日本を飲み込もうとした。言ってみれば彼らは、『新日本を潰そうとしている』。そう感じていて、自分たちも『そうはいかんぞ』と抵抗したんです」

 藤波は、前田との一騎打ちで大流血に追い込まれるなど、リング上で体を張ってUWFから新日本を守った。しかし他の多くのレスラーは、危険な試合を仕掛ける前田に嫌悪感を持っていながら、面と向かって抗議する選手はいなかった。そんななかで武藤は、旅館での宴席で前田への怒りをぶちまけたのだ。

 武藤が前田に反抗した理由を、藤波はこう分析する。

「武藤だからこそ、あの前田に面と向かって反抗できたんです。おそらく武藤は、『なんで先輩たちは、そんなにUWFに身構えるのか』という思いがあったんじゃないかと。前田が新日本にいた時から所属していた選手は、ほとんどが前田を嫌って遠ざけていましたが、武藤は前田がいったん新日本を離れていた時に入門してきたから、前田へのアレルギーがなかったんです。

 しかも当時の彼は、デビュー3年目くらいでプロレスラーとしての型が定まっていない時期でした。キャリアが10年を超えるあたりから、レスラーにはそれぞれに殻ができてそれを破れないものなんですが、武藤にはその殻がまだなかった。だから前田であろうがUWFであろうが、何の抵抗もなかったんです。しかも彼の性格は、ナチュラルで怖いモノ知らず。酔った勢い、というわけではなく、前田に文句を言って殴り合うことができたんです」

【武藤のプロレス哲学と感性】

 さらに藤波は、UWFのプロレスが「つまらない」と言い放った武藤にプロレス哲学を感じていたという。

「武藤は柔道で実績を積んで新日本に入門したから、やろうと思えばUWFの格闘スタイルにも対応できたし、同じようなプロレスはできたはずなんです。だけど、彼はそちらには行かなかった。そうなれば前田の色に染められてしまうし、確固たる"やりたいプロレス"があったんでしょう。あと、『自分が目立つにはどうすればいいのか』という感性は鋭かったですね」

 藤波はそんな武藤の感性を、タッグを組んだ時に実感した。

「タッグを組む時、僕は後輩のレスラーにあまりアドバイスをしないし、後輩のほうは僕に気を遣うものなんです。僕も、猪木さんと組む時はそうでしたから。だけど武藤は違って、すべて自由にやっていた。僕に気なんて遣わなかったんですよ(笑)。それは鋭い感性があったからこそできたこと。逆に僕は武藤と組む時、彼が自由にやっているから、こっちも彼の動きを見て『違う動きをしよう』という刺激になりました」

 その才能をいかんなく発揮していた武藤は、1988年1月に2度目の海外遠征へ。そこでヒールレスラーのグレート・ムタが誕生し、再び新日本に大きな波を起こすことになる。

(第3回:グレート・ムタは引退発表後のアントニオ猪木にも忖度なし。「武藤には自分より上のレスラーはいないという自負があった」>>)

【プロフィール】
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 

1953年12月28日生まれ、大分県出身。1970年6月に日本プロレスに入門。1971年5月にデビューを果たす。1999年6月、新日本プロレスの代表取締役社長に就任。2006年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げする(2008年1月、同団体名を『ドラディション』へと変更)。2015年3月、WWE名誉殿堂『ホール・オブ・フェーム』入りを果たす。