「酒屋のオヤジ」だった元名選手、中日での挑戦を決意 メジャーリーグ公式サイトが、「2人のMLBレジェンドは日本で先駆者と…

「酒屋のオヤジ」だった元名選手、中日での挑戦を決意

 メジャーリーグ公式サイトが、「2人のMLBレジェンドは日本で先駆者となった」と題して、1962年に中日でプレーしたラリー・ドビー外野手(享年79)とドン・ニューカム投手(享年92)を紹介している。アメリカではドビーとニューカムが日本で1年プレーしたことは忘れられているが、記事はドビー氏の息子のドビーJr.氏の証言をもとに「日本では『パイオニア』として記憶に刻まれている」と評している。

 1962年に2人が中日と契約した時、ドビーとニューカムはともに選手としては終わりを迎えていた。ドビーはメジャーで最後の試合出場からおよそ3年経過しており、ニューカムは前年、3Aのパシフィックコーストリーグのスポケーンで投手だった。ただ、中日からはチームの救世主として尊敬され、祝福されたのだという。

 その理由をドビーJr.氏は「私の父とニューカム氏は日本で大いに敬意を払われていた。おそらくNPBでプレーする初のメジャーリーガーだったからだろう」と語る。米軍基地に属していた「アルバイト選手」を除けば、メジャーリーグの経験がある選手が日本プロ野球に身を投じるのは初めてだった。

 始まりは偶然だった。記事は「日本球界の関係者2人と通訳があるバーに足を踏み入れたことで、ニューカムとドビーが日本プロ野球を変えることになった」と指摘している。1962年のニューカムは、ニュージャージー州ニューアークで酒屋とカクテルラウンジを運営していた。ある日3人はニューカムを訪ね、日本でプレーしないかと誘った。しかも投手ではなく、主に一塁手としてのオファーだった。

 ニューカムは1956年には27勝を挙げ、ナ・リーグの最多勝に輝いた。その年リーグチャンピオンとなったドジャースは、ワールドシリーズ終了後に日本を訪れており、日本にはなじみがあった。ドラゴンズは、ロビン・ロバーツや後にヤンキース監督となるビリー・マーチンなども獲得しようとして断られていたが、ニューカムはオファーを受け入れた。

メジャーリーガーが日本でプレーする“時代”の始まり

 1962年、ニューカムは投手としては1試合登板にとどまった。打者として81試合に出場し打率.262、12本塁打。ともに中日入りしたドビーは72試合で打率.225、10本塁打の成績を残した。

 2人の中日入りは「MLBで地位を確立したメジャーリーガーたちが、日本のプロ野球でキャリアを延長するという新しいトレンドの始まりでもあった」と指摘する。ドビーとニューカムは、その後多くメジャーリーガーが日本にやってくる“道”を作ったのだ。

 さらに記事は、「2人の日本移籍は、黒人選手が日本の野球に影響を与えてきたという歴史的な流れを継続した」としている。ドビーは1947年にインディアンスと契約し、これはジャッキー・ロビンソンに続く黒人2人目のメジャーリーガーで、ア・リーグでは初だった。

 ドビーとニューカムの中日での選手生命は1年で終わったが、2人は日本の生活から大きな影響を受けていたという。ドビーJr.氏は、「父が日本人形や着物、下駄をたくさん持って帰ってきたよ」と証言しており、さらに「ドラゴンズのヒロシ・ゴンドウ(権藤博=元横浜監督)投手にちなんで、家で飼っているシェパードを“ゴンドウ”と名付けた」と笑った。権藤氏は2人とチームメートだったこの年30勝17敗、防御率2.33という驚異的な成績を残している。

 その後、ニューカムはドジャースのフロントで働き、ドビーは1978年、ホワイトソックスでMLBで2人目の黒人監督となり、1998年には野球殿堂入りも果たしている。2人の「開拓者」は、日米の野球をつなぐ架け橋となった。(Full-Count編集部)