平石洋介インタビュー(中編) ユニフォームを着る。グラウンドに立つ。西武のヘッドコーチである平石洋介にとって、松井稼頭央…
平石洋介インタビュー(中編)
ユニフォームを着る。グラウンドに立つ。西武のヘッドコーチである平石洋介にとって、松井稼頭央は監督である。ただ、ひとたび衣を脱げば「カズさん」「ヨウ」と呼び合い、関西弁で腹を割って話すことができるほど距離が縮まる。
「俺、相手に気を遣いすぎちゃうところあるのはわかっていて。でもヨウは、誰にでもはっきりものを言えるよな」
「なんかその言い方、棘(とげ)ありますね」
「そんなことないわ(笑)。でもおまえ、そうやん。『こうや』と思うたことははっきり言うやん。すごいなと思うわ」
2021年秋に平石がソフトバンクから西武に戦いの場を移した背景に、松井から「ヨウの力を貸してほしい」と誘われたこともあった。
平石にとって5歳上の松井とは、ただの先輩ではない。「大きな決断の時に心を委ねられる、数少ない人間のひとり」なのだという。

今季から西武の監督となった松井稼頭央(写真右)とヘッドコーチの平石洋介
【本格的な交流は2011年から】
ふたりはPL学園のOBでもある。最初の出会いは平石が高校在学中だったが、当時は現在のような関係性が構築できるなど、当たり前のことながら想像もできなかった。
「松井稼頭央や!」
平石からすれば、母校に訪れたのはPL学園の先輩である以上に、西武のスター選手だった。松井が学生時代にやんちゃをしていた逸話は聞かされていたが、プロ野球選手への憧れが勝った。
PLには後輩が先輩の身の回りの手伝いをする「付き人制度」があり、平石の系譜をたどれば5学年上に松井がいた。そのため、あいさつをした覚えはあっても松井の滞在時間が短かったこともあり、詳細な会話の中身は記憶にない。あるとすれば、「付き人の系列って差し入れをもらえるのに、あの時はもらえんかった」ことくらいだった。
本格的な交流が始まったのは2011年。この年に松井がメジャーリーグから楽天に移籍したことによって、ふたりはチームメイトとなった。
「本当にいい意味で衝撃を受けたんですよ」
平石が笑う。松井の人柄に触れた時のことを、今でも生々しく記憶している。
「僕が高校の時から『怒らせたらアカン人や』って聞いていたんで、こっちとしては身構えるじゃないですか。それが『えっ?』っていうくらい穏やかで。めっちゃしゃべりやすいし、やさしいし、親身に接してくれるんで『俺が抱いていたイメージってなんやったの?』って。それくらい、いい人でした」
この時点で、日米通算2000安打を達成していたスーパースターであっても偉ぶることなく、高校の後輩である平石のみならず誰に対しても同じようにやさしく接する松井とはすぐに打ち解けた。「稼頭央さん」「平石」から「カズさん」「ヨウ」と呼び合うようになったのも、自然な流れだった。
後輩と先輩の関係に変化が訪れたのは、平石がこの11年限りで引退し、翌年から楽天でコーチとなってからだ。
【年下の平石にも敬語】
年下の指導者と年上の現役選手──この構図こそ、平石が松井の器の大きさと懐の深さをいっそう認識し、松井もまた平石のブレない根っこを知れた端緒にもなった。そして平石が楽天の二軍監督となった2016年。前年に不惑を迎えた大ベテランの松井に対し、指導者としての自分の方針を明示した。
「ウォーミングアップは手抜きせずにする、声を出す時は出す。それは若手もベテランも関係なく徹底させるんで、カズさんもしっかりやってください」
松井が二軍監督の指示に従う。それどころか周りにチーム関係者がいれば年下の平石を「監督」と呼び、敬語で話すなど、後輩扱いせず指導者として接してくれたのだ。松井からすれば当たり前の振る舞いであったが、要するに彼は"フォア・ザ・チーム"の塊のような人間なのである。
西武に復帰し、現役最後となった2018年。松井は代走として出場する試合がたびたびあった。43歳という年齢から考えると、ベンチとしては代打として待機してもらうケースが多い。しかし、ベンチから足で戦力として見られている以上、松井はそのための準備をし、文句ひとつ言わずに役割をまっとうした。
同じチームではなかったが、平石はそんな松井の姿を見てきたのである。
「カズさんくらい実績を残している人ができることかと......。首脳陣に気を遣わせるベテランもいるので。それがないから、カズさんはすごいんです」
一方、松井からすれば、平石が若くして指導者となり、一軍バッティングコーチとして2013年の日本一を陰で支えていたことも知っている。ヘッドコーチ、一軍監督とステップアップしたのは、人を導く手腕があると認めているからである。だから、2019年に西武の二軍監督となった際、松井は平石を頼った。
食事の席や電話で松井から助言を求められれば、胸襟を開きなんでも答えた。
チームの意思の疎通を図る重要なミーティングで、平石は自分だけがしゃべるのではなく、必ず選手にも意見させている。首脳陣からの一方通行だと、選手が本当の意味で話を理解できているのか、曖昧なままで終わってしまう可能性があるからだ。
「選手にも一緒に考えてもらうため、ミーティングに興味を持ってもらうため」
そういった深謀が込められている。
【監督はとにかく孤独】
また平石は、シートノックにもこだわりを持つ。重要視するのは、動きとかけ声だ。
「試合では大歓声のなかでプレーするから、守備連携の声が聞こえづらい。だから判断力を養い、視野を広げさせるためにあえて声を出さないシートノックをすることもあります」
戦術的なことこそ話せずとも、"指導者・平石"としてこうした金科玉条を惜しげもなく伝えた。そんな男だからこそ、松井から西武に誘われたのである。
昨シーズン、ベンチの奥で監督の辻発彦が目を光らせ、手前にはヘッドコーチの松井とバッティングコーチの平石が戦況を見守っていた。この並びには、じつは意図があった。
「カズさんは指導者として初めての一軍で、ましてやヘッドコーチだったんで大変だったと思うんです。自分はどっちも経験させてもらっているから『僕が気づいたことは遠慮なく言わせてもらいますけど、カズさんも何でも言ってください』って話していたんで、『なら横にいたほうがいいだろう』って」
同じチームで1年を過ごした平石に、「指導者としての松井稼頭央は?」と尋ねた。すると、少し照れくさそうに「稼頭央さんは、稼頭央さんでしたよ」と言った。
ヘッドコーチとは「チームのナンバー2」でありながら、バランス感覚の難しい役職だ。監督の意向を咀嚼(そしゃく)して、ほかのコーチ陣や選手に落とし込まなければならないし、現場の状況を先読みしてチームを導き、監督の負担をできる限り減らさなければいけない。そんな立場の松井の苦悩を、平石は感じとってもいた。
「どっちかって言ったらカズさん、遠慮していたと思うんですよ。本当にやさしい方なんで、相手の気持ちを考えていたんでしょうね」
その松井が今シーズン、満を持して監督としてチームを指揮する。
気心を知り、指導者としても認められている平石がヘッドコーチに昇格し、チームには現役時代から松井の生き様に触れてきた者も多い。そういう環境だからこそ、新監督はリミッターを外して自分の野球をオープンに貫けるのではないか? そんな期待が膨らむ。
「そうっすねぇ」。平石は納得したような目を向けるが、そんな理想論ではなく、一軍監督経験者としてこう語る。
「監督って戦績によって世間の目が変わるし、周りから勝手にイメージをつくられることもある。とにかく孤独なんです。そうさせないためにも、監督には遠慮なくやりたいようにやってほしいし、コーチや選手もそれに対応できるための準備をしなければいけない。監督の一番の仕事って"決断"なんで。その邪魔だけは絶対しないようにサポートします」
聞くまでもないとはいえ、どうしても聞いておきたいことがあった。「平石洋介にとって、松井稼頭央とはどんな存在か?」と。
平石が間髪入れずに答える。言葉の抑揚が、うれしそうに弾んでいるようでもあった。
「まずは尊敬できる方ですよね。年上ですし、同じ高校出身の先輩でもあるし。指導者としては同志ですけど、今年から明らかに上司になりますしね。でも、場合によっては仲間になってくれたりね。いろんな関係性を受け入れてくれる人ですから、カズさんは」
後編につづく>>
平石洋介(ひらいし・ようすけ)/1980年4月23日、大分県生まれ。PL学園では主将として、3年夏の甲子園で松坂大輔擁する横浜高校と延長17回の死闘を演じた。同志社大、トヨタ自動車を経て、2004年ドラフト7位で楽天に入団。11年限りで現役を引退したあとは、球団初の生え抜きコーチとして後進の指導にあたる。16年からは二軍監督、18年シーズン途中に一軍監督代行となり、19年に一軍監督となった。19年限りで楽天を退団すると、20年から2年間はソフトバンクのコーチ、22年は西武の打撃コーチとなり、23年に西武のヘッドコーチに就任した。