元中日・小松辰雄氏、右肩痛抱えているのに1軍に昇格したプロ1年目 右肩痛を隠して登板したのではない。右肩痛を首脳陣に申告…

元中日・小松辰雄氏、右肩痛抱えているのに1軍に昇格したプロ1年目

 右肩痛を隠して登板したのではない。右肩痛を首脳陣に申告した上で1軍マウンドに上がったのが、元中日投手の小松辰雄氏だ。1978年10月4日のヤクルト戦(神宮)での出来事で、それがプロ初登板でもあった。「『肩が痛いんです』って言ったんだけど、コーチは『いいから、いいから行け』って感じだった。今だったら考えられないよ、ホントに……」。よく、そんな状態で投げられたものだ。しかも2イニングを無失点に抑えたのだから、恐れ入る。

 小松氏はその年の9月の終わり頃に右肩を痛めて、投球練習をやめていた。そんな時に1軍から呼ばれたが、明らかにその状態では厳しい。にもかかわらず、権藤博2軍投手コーチは「まぁ行け」と言い、1軍昇格となった。稲尾和久1軍投手コーチも怪我のことを知りながら、マウンドに送ることを全く躊躇しなかった。それこそ当たり前のように……。

「昔は少々、どこか痛くても注射打ったり、薬飲んだり、座薬入れたりして投げていたからね。そんな時代といえば、そうだけど、今考えるとあり得ないことだったね」という小松氏も、当時は何事もなかったような顔で登板している。広岡達朗監督率いるヤクルトが初優勝を決めた試合で0-9の7回から登板し、2イニングを3奪三振、無安打、無失点に封じた。「プロ初登板の緊張感もあって、肩の痛みも忘れていた」そうだ。

 試合が終われば、再び痛みに襲われたが、抑えたこともあって「次も投げろ」となった。10月11日の広島戦(ナゴヤ球場)。シーズン最終戦で2-6の8回から3番手で登板した。だが「今度は緊張感もないし、全然ダメだった」。広島のジム・ライトル外野手に満塁弾を浴びるなど、2回5失点に終わった。

 かなり無理をした2試合の登板だったが、その後に影響を与えることはなかったという。「(大投手だった)稲尾さんと権藤さんが最初のコーチだったというのは俺の自慢。肩はオフの間に治療した。今みたいないい機械はなかったけど、治っちゃったね」。

高卒2年目でブレーク、4月から5月にかけ30イニング連続無失点

 そして高卒2年目にブレークした。「今度は自主トレから少しずつ肩を作っていった。目立たなければいけないと思っていたしね」。宮崎・串間でのキャンプも順調だった。オープン戦もリリーフでほとんど抑えた。開幕当初は中継ぎ。4月11日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)に1-1の同点の8回表1死から3番手で登板し、無失点。その裏に味方打線が3点を勝ち越して9回もマウンドに上がり、ゼロに封じてプロ初勝利をマークした。

 翌12日の同カードでは1点リードの8回から登板し、2回無失点でプロ初セーブを記録。それまでの抑え役だった鈴木孝政投手の肘の状態があまり芳しくないこともあり、小松氏が一気にリリーフエースに“昇格”し、そのスピードボールが注目を集めた。5月は14試合に登板して1勝1敗5セーブ、26回1/3を投げて失点はわずか1、初の月間MVPにも輝いた。4月28日から5月30日までは30イニング連続無失点でもあった。

 まさにインパクト大の活躍だったわけだが、その月は忘れられない対決もあった。5月31日の巨人戦(後楽園)で月間唯一の失点を喫したシーン。相手は少年時代からの憧れの人・王貞治内野手だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)