連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第23回 2007年、東京六大学春季リーグ戦は最終週の早慶戦を迎えた。学生…
連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第23回
2007年、東京六大学春季リーグ戦は最終週の早慶戦を迎えた。学生チケット9000枚は1時間で完売、9時予定の開門は6000人が列をつくったため、30分繰り上げられた。そして土曜日の1回戦、早稲田の先発は3年の須田幸太。1年の斎藤佑樹は日曜日の先発が予定されていた。

大学1年春に優勝、ベストナインを獲得した早稲田大の斎藤佑樹
【初めての早慶戦】
あの時の早稲田は早慶戦に1つ勝てば秋春連覇が決まるという有利な状況でした。もし慶應に連敗したら勝ち点、勝率ともに早慶明の3校が並んで、久しぶり(56年ぶり)の3校による優勝決定戦にもつれこむ、ということも聞かされていました。
優勝はもちろんですが、僕にとっては初めての早慶戦でしたから、特別な期待感がありました。あの時のことで今も印象に残っているのは、大学へ入学した時、早稲田の先輩たちから『早慶戦はすごい、リーグ戦のほかの試合とはまったく違う』と聞かされていたことです。お客さんがたくさん入るのはもちろん、学生の盛り上がりもすごくて、特別なお祭りみたいだと言われて、ワクワクしていました。
ただ、そういう時ってイメージだけが膨らみすぎて、実際に見るとガッカリするパターンが多かったりするじゃないですか(笑)。ところがあの日は僕らが神宮球場に入った瞬間、まさにお祭り騒ぎで盛り上がっていて、騒然とした雰囲気だったんです。僕らはまだアップの段階なのに、ライトスタンドもレフトスタンドも学生がいっぱい入っていて、ビックリしました。僕らがライト側で、慶應はレフト側でアップしていたんですが、なんとなく、みんなが浮足立ってる感じなんですよね。
観衆は3万4000人だったと聞きましたが、明治戦の時の3万人とは比べものにならない雰囲気で、野球をするというより学校対学校の文化祭が始まるのかという感じ。想像を遙かに超えていて、感動しました。
土曜は須田さんが先発しましたが、早稲田は初黒星。優勝はその次の日、日曜の2回戦へ持ち越しとなりました。で、先発は僕です。すごいですよね......生意気な言い方になりますが、自分を鼓舞する意味でもひとつあったのは、開幕投手をやらせてもらって、その後、立教、法政、明治と戦っていくにつれて、どこかで自分のチームだと思えるようになってきたんです。最初は先輩に迷惑をかけないよう、ただ先輩についていくことだけを考えていたんですが、いつしか僕がこのチームを優勝させるんだという感覚になってきていました。
【オレが優勝を決めてやる】
それがまさに、優勝がかかった早慶戦で自分に順番が回ってきた。『よし、オレが優勝を決めてやる』という気持ちで迎えた日曜日でした。あの早慶戦の空気のなかで自分の気持ちが盛り上がらないわけはないので、あえて何もせず、試合前も普通に過ごしていたと思います。
日曜は土曜よりもさらにたくさんのお客さんが入っていました(3万6000人)。あの時の慶應には3番に梶本(大輔)さん、4番に佐藤翔さんが並んでいて、左の梶本さんには大学に入って投げ始めたツーシームで、右の佐藤さんにはインコースの真っすぐとスライダー、フォークで勝負するイメージで投げていました。
当時の僕はいわゆる右のパワーヒッターを抑えるのは得意でしたが、左の巧いタイプにはうまく拾われる感じがあって、あの試合でも梶本さんには苦労した印象があります。
それでも立ち上がりから、あまり打たれた記憶はありません(5回まで1安打無失点)。味方が打ってくれたこともあって(4回までに8得点)、ピッチングのことはほとんど覚えていないんです。
えっ、6回に4失点? そうでしたっけ......ああ、右バッター(高橋玄)の頭にぶつけて、次のバッター(右の松橋克史)のヒジにも当てて、押し出しのデッドボールになったんでしたね。あの回、急に身体が軽くなって空回りした感じがあったのかな。それと慶應の右バッターがベースに近づいて立ってきたので、あえてインコースを攻めたんです。そこは自分のピッチングの生命線でしたし、僕もムキになっていたのかもしれません(笑)。
6回を投げ終えたところ(104球、被安打4、与四死球5、奪三振8、失点4)で松下(建太)さんに交代、9回は初戦に先発した須田さんがマウンドに上がりました。あれは應武(篤良)監督ならではのエースに対する配慮なんだろうなと思いました。優勝の瞬間のことはよく覚えています。須田さんがマウンドにいて、9−5とリードは4点(須田が1点をとられた)。
僕は松下さんと一緒にベンチの一番前にあったバットケースに乗っかって、前のめりです。僕も松下さんも投げ終えて、お祭りに加わるだけ。いつもなら4点とられれば悔しいし、あの時にこうしておけばよかった......なんてことを考えるんですが、松下さんは(2回を)ゼロに抑えて、僕らはやっとこのお祭りに加われると思った瞬間だったんです。そもそも松下さんはお祭り男でしたから、「一緒にワーッと行きたいな」と思っていました。
【盤石のスーパースター軍団】
夏の甲子園では最後(決勝)が2試合ありましたから、ものすごく苦しみながら何とか手にした優勝でした。でも神宮での優勝は、入学してすぐの春、早慶戦というお祭りのなかで、先輩たちに引っ張られながらも自分も加わってつかみとった優勝......正直、大学ってこんなふうに優勝できるんだな、と思っちゃった瞬間でもありました。早慶戦までの8試合は全勝、それも立ち上がりに先輩たちが大量点をとって、ラクに勝つ展開が多かったんです。早慶戦では1つ負けましたが、春のシーズンが始まってから『早稲田って強いな』と、ずっと思っていました。
主将で4番の田中幸長さん、5番にサードの小野塚(誠)さん、ショートの本田(将章)さんというすごい選手がいて、その1個下には上本(博紀)さん、須田さん、松本啓二朗さん、細山田(武史)さんがいた。僕らからしたら盤石のスーパースター軍団です。たぶん自分たちの代まで4年間、ずっとラクに勝てるんだろうなって、そんなことまで思ってしまうほどの強さでした。
ただ、ピッチャーとして満足していたわけではありません。甲子園で勝ってからの僕は、自分ではコントロールできない流れにも乗って、実力以上の運に恵まれたところもありました。その運を使いきる前に、何とか実力をつけたいという気持ちがありました。
そのためには、まずスピードをもっと上げなければなりません。プロで活躍していた松坂大輔さんのように、150キロのストレートを投げて、変化球もスライダー、フォーク、チェンジアップを自在に操る、多彩なピッチングがしたかった。そこへ行きつくためには当時、アベレージで145キロも行かないくらいだったスピードを、140キロ台の後半には上げたいと思っていました。
春のシーズンはけっこうツーシームを使いましたが、当時の僕からしたらそれは本意ではありませんでした。本当はフォーシームが7割、あとの3割が変化球くらいのイメージでいたかったんです。でもツーシームが思ったよりもよかったこと、細山田さんにリードを任せっきりだったこともあって、そういうピッチングになっていました。
細山田さんは当然、大学野球をよくわかっていますし、細山田さんの配球に1年の僕が首を振ることはほとんどなかった。実際、細山田さんのリードどおりに投げていれば打ちとれていたから、いつしか大学野球は変化球が多くないと打ちとれないんだなという感覚にもなっていました。
もちろん、いくら自信過剰だった僕でも、こりゃ、さすがに出来すぎだなという気持ちはあったんですよ(笑)。その時には言葉のレパートリーも少なくて、なんでもかんでも「運があった」「持ってる」なんて言い方でまとめてしまいましたが、心のなかでは先輩たちに助けてもらったという感謝があって、だからこそもっと完投、完封を重ねて、エースとしてチームを引っ張っていかなきゃいけないという想いになっていたわけです。5回とか6回で代わって先輩たちに助けてもらうんじゃなく、ちゃんと完投して、土曜を絶対にとる......仮に日曜に負けても、僕で月曜をとる。春に優勝したからこそ、そういうピッチャーでなければならないと思っていました。
* * * * *
1年春、斎藤は開幕から無傷の4連勝で早大に39度目の天皇杯をもたらした。しかも投手部門で東京六大学リーグ史上初となる1年春のベストナインに選出される。夏の甲子園を熱狂させた"ハンカチ王子"は、神宮でもその輝きが色褪せていないことを示したのだ。明治神宮絵画館前から早大正門までの"提灯行列"は、じつに2000人にも膨れ上がった。
(次回へ続く)
斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日生まれ。群馬県出身。早稲田実業高のエースとして、2006年夏の甲子園において「ハンカチ王子」フィーバーを巻き起こし、全国制覇。早稲田大進学後も東京六大学リーグで活躍し、2010年にドラフト1位指名で北海道日本ハムファイターズに入団。1年目から6勝を上げ、2年目は開幕投手も務めた。ケガに悩まされて2021年シーズンで引退。株式会社斎藤佑樹を立ち上げて、野球の未来づくりにつながるさまざまな活動を開始した。