サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、サッカージャーナリスト・大住良之による「超マ…
■その9 背番号10のミステリー
ペレといえば10番である。
日本ではJリーグが始まる前から「背番号10」が最も花形の番号とされていた。おそらくそれは、木村和司(日産~横浜マリノス)やラモス瑠偉(読売クラブ~ヴェルディ川崎)ら1980年代に活躍した選手たちの影響によるものだろう。またあるいは、1979年のワールドユース(日本開催、現在のFIFA U-20ワールドカップ)以来、マラドーナが10番を付け続けたことによるものかもしれない。彼らがフィーチャーされるなかで、「背番号10はサッカーの特別な番号」というイメージが出来上がった。
しかしそれはサッカーが(あるいは背番号をつける習慣が)始まった当初からのものではない。そのイメージの始まりがペレだったのである。
1958年、ブラジルをワールドカップ初優勝に導いて17歳で世界の寵児となったペレの背中にあったのが10番だった。以後、ブラジル代表でも所属のサントスFCでも、ペレは10番しかつけなくなった。その前には、サントスでも、FWのさまざまな番号、7番から11番をつけていたのである。当時のサッカーは、先発選手に1番から11番まで割り当てられるものだったからだ。
「たまたま10番ということになったんだよ」と、ペレ自身は語っている。
近年のワールドカップにおいて、ブラジル代表はあらかじめ「レギュラー」と予定された選手にポジション別に1番から11番を割り振り、12番以降は、各ポジションのバックアップ選手に、レギュラー番号に10を足したものが割り振られている。たとえば1982年のスペイン大会では、トニーニョセレーゾが5番、ソクラテスが8番、ジーコが10番だった。大会前には4-3-3システムが予定されており、MFはこの3人だった。
しかし初戦はトニーニョセレーゾが出場停止だったため、その「バックアップ」の背番号15ファルカンが初戦のソ連戦に出場。そのパフォーマンスがあまりに良かったため、第2戦のスコットランド戦では「先発予定」の3人にファルカンを加えた4人をMFに並べた。それが「黄金の4人」の始まりである。
ところが1958年大会時のブラジルサッカー協会の担当者はよほどのうっかり者だったらしい。番号を付けずに選手リストをFIFAに送ってしまったのだ。試合では背番号をつけることになっている。FIFAの担当者は一瞬困ったが、彼もまたのんき者だった。「背番号は個人を識別するものだから、何番でもいいだろう」とばかり、自分で適当に番号を割り振ってしまったのだ。そして17歳のペレに与えられたのが10番だった。
1番は1954年大会でブラジルのゴールを守っていたカスティーリョ(FIFAの担当者にはその知識があったのだろう)だったが、この1958年大会のレギュラーGKとなるジウマールは3番だった。そのほかにも、センターバックのゾジモが背番号9をつけるなど、この大会のブラジル選手の背中には非常にちぐはぐな番号がついていた。そうしたなかでペレが10番をつけたのは、まさに「運命」だった。10番は左のインサイドFW、あるいは第2ストライカーの番号である。まさにペレの番号だったのだ。
以後、背番号10は、ブラジルだけでなく、世界中のサッカー選手のあこがれとなった。それがいまでも続いているのである。
■その10 フェアプレー
ペレは間違いなく最高クラスの天才選手だった。アルフレード・ディステファノ(アルゼンチン)らペレ以前のスーパースターを私は実際に見ていないので比較はできないが、以後の選手でペレと比較できるのは、かろうじてアルゼンチンのディエゴ・マラドーナとオランダのヨハン・クライフだけではないか。しかしペレが世界中で愛されたのは、その天才的なプレーだけによるのではない。何よりも彼の笑顔、誰をも差別せずに受け容れる人柄にあった。
幸運なことに、私は数回ペレにインタビューをする機会を得た。すべて1990年代のころのことである。アメリカのニューヨーク・コスモスでの2回目の引退から十数年。マラドーナが世界を制した後にも、ペレは世界の寵児だった。当時ペレはクレジットカードの「マスターカード」と契約し、ワールドカップや欧州選手権の大会スポンサーの「広告塔」として活動していた。そのペレ担当者と知り合いだったため、ペレとのインタビューという夢のような機会が、しかも複数回与えられたのだ。といっても、単独ではなく、数人での合同インタビューだったが…。
ペレの声は、よく響くバリトンだった。英語も達者だった。何より感心したのは、もう何万回、何十万回も聞かれていると思われる質問に対しても、ペレはまったくそんなそぶりを見せず、まるで初めて聞かれたかのように誠実に丁寧に答えていたことだった。
世界中のサッカーファンが、そして世界中の少年少女が愛する「ペレという役割」を、何十年間も演じ続けられる強靱な精神力は、1000を超す試合のすべてでチームの勝利のために全力を尽くした現役時代の秘密を十二分に解き明かすものだった。
そしてまた、ペレは「友情」と「フェアプレー」の大切さを説くことも忘れなかった。いつも挙げたのはボビー・ムーアの例だった。1970年ワールドカップの2試合目に対戦したイングランドは、この大会でブラジルがぶつかった最も強い相手だった。GKゴードン・バンクスは、完璧なゴールと思われたペレのヘディングシュートを、ゴール幅の8メートルをまるで瞬間移動するように動いてはじき出した。そして何よりもペレのプレーを制約したのは、イングランドDFボビー・ムーアの卓越した守備技術だった。
1966年のワールドカップでは、ペレはブルガリアとポルトガルの非情な反則タックルで傷つき、「もうワールドカップなんて出たくない」とまで考えた。しかしムーアはまったく別だった。何よりも読みがよく、ペレの意図を見抜いて先回りした。試合中に何回も対峙するうちに、ペレはこのそう大柄ではない金髪のディフェンダーに敬意を抱くようになった。
そして試合終了後、ペレはムーアを探した。運良く見つけると、「シャツを交換しよう」ともちかけた。ムーアがいやがるはずはなかった。こうして、「ワールドカップ史上最も美しいシーン」、ペレとムーアのユニホーム交換が生まれた。実はこれが2人の初対戦だった。初めての出会いはピッチの上だけのものだったが、その後2人には深い友情が生まれた。
ペレは、「ワールドカップ優勝も大事な試合でのハットトリックも素晴らしいが、それ以上に素晴らしいのはサッカーを通じての友情である」と説き続けた。そのためにも、フェアプレーが何より大事だと語った。
2022年12月29日に息を引き取るまで、ペレはペレだった。エドソン・アランテス・ド・ナシメントというひとりの人間に戻れるのは、自室にいるときだけ。その他の時間は、ペレとして振る舞い、ペレとして語り、サッカー界だけでなく、世界中の人びとに向かって、「愛と平和」を、笑顔とともに全身で訴えかけながら、ペレとして人生を終わった。