サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、サッカージャーナリスト・大住良之による「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、サッカージャーナリスト・大住良之による「超マニアックコラム」。「サッカーの王様」を10個のエピソードで探っていく。

■その6 日本に与えた衝撃

 1972年5月26日、ペレは所属するブラジルのサントスFCとともに東京の国立競技場で日本代表と対戦し、3―0の勝利で2ゴールを記録した。来日から離日まで約60時間。その間の熱狂は、現在では想像もつかないものだった。

 アメリカのロサンゼルス発の便が東京の羽田空港に着くのは5月24日15時45分の予定だった。しかし機材のトラブルで大幅に遅れ、到着は深夜0時となった。そして午前1時、ようやくペレが到着ロビーに姿を表す。ブラジルから40時間を超す長旅の疲れもみせず、ペレはいつもの笑顔を見せたが、そこに午後から10時間以上待っていた数百人のファンが殺到した。最初は差し出された紙にサインしていたペレだったが、あまりに殺気だった雰囲気に音を上げ、ついにガードマンに囲まれて遁走を余儀なくされた。

 翌25日には国立競技場で練習。非公開とされていたが、熱心なファンに押し切られ、日本サッカー協会は「有料入場」を認めた。事前告知がなかったにもかかわらず、2000人を超すファンがペレの一挙手一投足を見守った。

 そして26日の試合前も異様な雰囲気となった。試合前、白いユニホーム姿のペレがサントスのチームメートと日の丸をもって入場、ジョギングで場内を1周し始める。すると感極まったファンがスタンドから次々と飛び降り、あっという間に数百人となった。ファンはペレに殺到するとユニホームをはぎ取り、それを阻止しようとしたGKクラウジオが指を負傷するというトラブルも起きた。「場内1周」はあっという間に中止され、上半身裸のペレはロッカールームに逃げ帰った。

■期待にたがわぬプレー

 さて、なんとか始まった試合はサントスが完全に支配、前半9分にFWジャディールのゴールで先制すると、後半29分と31分にはペレが連続得点。スタジアムの熱狂は頂点に達した。日本代表の長沼健監督は「スッポン」のニックネームをもつDF山口芳忠をペレへのマンマークにつけたが、チームにとっての3点目、ペレ自身の2点目はそのマークをまったく無力化する驚くべきものだった。

 正面、ペナルティーエリアのわずか外で浮き球のパスを受けたペレは、背後から厳しくチャージする山口にも動じず、胸でコントロール。ターンしながら右足でそのボールを左に浮かして山口を外す。ボールを追うペレ。カバーにきたDF小城得達が追いすがる。バウンドするボールを小城が左足を上げてつつこうとした瞬間、ペレは走る方向を左からゴールラインへと変え、上体を傾けながら頭でボールを叩いて前に出して加速する。そして次のバウンドからボールが上がってくるところに左足を一振、GK船本幸路が守る日本ゴールの左上隅を突き抜いたのだ。

 まさに日本のファンが夢見ていたプレー。それをペレはまざまざと見せてくれた。1960年代からサントスFCは世界を舞台に数多くの親善試合(1年間に数十試合にもなった!)をこなし、ペレはほぼ1試合に1ゴールの割合で得点を重ねて世界のファンを喜ばせてきたが、これほど見事なゴールはそう多くはなかったのではないだろうか。

■日本とのつながり

 ペレの名は、日本でも、サッカーファンの間では1960年代からよく知られていた。1958年ワールドカップ・スウェーデン大会に17歳でブラジルの初優勝に貢献し、4年後のチリ大会でも連覇に貢献、1966年のイングランド大会では負傷でグループリーグ敗退の憂き目を味わったが、29歳で出場した1970年メキシコ大会では見事な攻撃サッカーの中心となり、6戦全勝という完璧な勝ち方でブラジルを3回目の優勝に導いた。

 そのメキシコ大会が「東京12チャンネル」(現在のテレビ東京)の「ダイヤモンドサッカー」を通じて詳細に紹介され、ブラジル、ペレ、そしてその「ビューティフル・ゲーム」は日本中のサッカー関係者を夢中にさせた。全国の少年サッカーの指導者たちがペレのような選手を育てたいとブラジルのテクニックを研究。ユニホームまで黄色・水色・白に変えるチームが続出した。そのときのペレとブラジルへの熱狂が、今日の日本サッカーのボール技術に結びついている。

 ペレはその後何回もきて少年少女に指導したり、また1975年から3シーズン在籍したアメリカのニューヨーク・コスモスの一員として「現役引退世界ツアー」の1試合を日本で行うなど、日本のサッカーの発展に大きな役割を果たした。

いま一番読まれている記事を読む