サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、サッカージャーナリスト・大住良之による「超マ…
■その7 「ビューティフルゲームJogo Bonito」
いまや「人類の祭典」と呼ばれ、2022年カタール大会の決勝戦のテレビ観戦者は15億人にものぼったというワールドカップ。しかしそうした存在への大きな転機は、メキシコで開催された第9回大会だったに違いない。初めて全世界に生中継、しかもカラー放送されたのが、この大会だったからだ。そして何よりも、そこで実現されたブラジルの喜びに満ちた攻撃的サッカーこそ、ワールドカップの人気を確たるものとした最大の要因だった。
この大会で、ブラジルは6戦全勝。初戦、チェコスロバキアに4-1で快勝すると、前回チャンピオンのイングランドに1-0で競り勝ち、ルーマニアには3-2。準々決勝ではペルーを4-2で下し、準決勝もウルグアイに3-1、そして決勝戦ではイタリアを4-1で一蹴した。総得点19(1試合平均3.17点)。右にジャイルジーニョ、左にリベリーノ、中央にはトスタンとペレが並ぶ攻撃陣は、圧倒的なテクニックで相手を翻弄した。
このブラジルのサッカーは、「ビューティフルゲーム」と呼ばれた。ポルトガル語ではJogo Bonito。サッカーの「別称」あるいは「美称」となっている。その起源には諸説あり、1950年代から使われていたとも言われているが、決定的にブラジルや世界に広まったのは、やはりサッカーが本当に「美しい競技」であった1970年大会のブラジル代表を経てからだった。
当時の優勝トロフィーは、大会創設に尽力した国際サッカー連盟(FIFA)の第3代会長の名を冠した「ジュール・リメ・カップ」だった。1930年の第1回ウルグアイ大会前製作され、イタリアに保管されていた第二次世界大戦を経て使われ続けたこのトロフィーには、「3回優勝したチームが永久保持できる」という規約があった。その夢を、1958年からわずか4回の大会で実現してしまったのが、1970年大会のブラジルだった。
29歳のペレは1958年のような「暴れん坊」ではなかった。しかし攻撃の中心にあって、「ビューティフルゲーム」を見事なまでにプロデュースした。そしてときおり、世界の誰もが思いつかないトリックを見せて、サッカーという競技に新しいイマジネーションを与えた。
準決勝のウルグアイ戦。3-1とリードした終了間際のことだった。ハーフライン付近、左タッチラインのジャイルジーニョがボールをもつ。そして内側からサポートしたトスタンにパスが渡る。少しボールを持ち上がったトスタンは、ピッチ中央を猛烈な勢いで走り上がってくるペレめがけて斜めのスルーパス。しかしウルグアイGKラディスラオ・マズルケビッチは「世界一」と評価される名手だった。トスタンのスルーパスを読み、すばやく前進してペナルティーエリアを出、ちょうどアークのなかでペレの足元に飛び込んだ。左後方からのパスをペレがコントロールするする瞬間を狙ってのディフェンスだった。
だがここでペレが驚くべきプレーを見せた。ボールをスルーし、そのままマズルケビッチの左側をすり抜けたのだ。そしてすばやく方向転換して右前方に流れたボールを追う。マズルケビッチはボールもペレも捕まえ損ね、ペレはゴールエリアの右角あたりでボールに追いつくと、体をひねって右足でシュート。ゴールには必死にカバーにきたウルグアイDFがはいっていたが、シュートはその動きの逆をついてゴール左隅を襲った。ただ残念なことにわずかに左に切れた。
1970年大会は、まさにペレが充実しきった時期のプレー、円熟味とともに、10代のころに見せた圧倒的なスピードとテクニックが組み合わさったプレーに彩られた大会だった。決勝戦で闘志あふれるヘディングシュートで先制点を決めたペレは、こうしてブラジルに3回目の優勝、しかもすべて自らプレーしての優勝をもたらし、自分の名声と「ビューティフルゲーム」を永遠のものとしたのだ。
■その8 サッカー王国
「サッカー王国」と呼ばれ、実際、ワールドカップで最多の5回もの優勝を遂げ、どの大会でも主役を演じるブラジル。昨年のカタール大会で第22回になったワールドカップだが、その全大会に出場している唯一の国がブラジルだ。しかしブラジルは最初から「王国」だったわけではない。
1938年のワールドカップ・フランス大会ではレオニダスという天才FWを擁して高い評価を受けたブラジルだったが、自国開催で優勝の期待が高まった1950年大会ではウルグアイに逆転負けを喫して国民を失意のどん底に陥れた。そしてようやく初優勝を飾ったのが、6回目のワールドカップ参加、1958年のスウェーデン大会だった。
この優勝をもたらしたのが、世界のサッカーにすい星のように現れた17歳のペレである。グループリーグの第3戦、ソ連戦に初登場すると、目覚ましいプレーで2-0の勝利に導き、準々決勝のウェールズ戦ではワールドカップ初得点を記録して1-0の勝利に貢献、準決勝のフランス戦(6-3)ではハットトリック、そして決勝のスウェーデン戦(5-2)でも2点を記録し、ついにブラジルに初優勝をもたらしたのだ。
「17歳で世界最高のプレーヤーと呼ばれる選手を生む国」。ブラジルの「王国伝説」の始まりである。
4年後の1962年大会は、1958年のようには運ばなかった。ペレは初戦ではメキシコを相手に勝利を決定づける2点目を決めたが、大会数か月前に痛めていたももを第2戦で悪化させ、途中で退場(当時は交代はできなかった)。発熱もしたため数日間の入院を余儀なくされ、以後出場できなかった。
しかしペレに代わって出場したアマリルドが次のスペイン戦で2得点して2-1の勝利に導き、以後は1958年大会でペレとともに優勝を担ったガリンシャが獅子奮迅の活躍を見せて連覇を果たしたのである。
「あのペレがケガをしても、代役でワールドカップが取れる」。これも「王国伝説」にひと役買った。
だが4年後の1966年大会。ブラジルは手ひどいしっぺ返しを食らう。ブラジルは初戦、ブルガリアを相手にペレとガリンシャがFKを決め、2-0で勝利。しかし2つのFKはペレへのひどいファウルによるもので、ペレは負傷。続くハンガリー戦を欠場する。レフェリングが悪く、相手を負傷させようというプレーも大目に見られていた時代だった。ハンガリー戦は1-3で敗れ、ブラジルは第3戦のポルトガルに勝たなければならない状況となった。
後のない試合。ペレは右ひざの痛みをかかえて出場したが、ポルトガルの選手たちはペレがボールをもつたびにその右足を狙い、ついに前半途中にひどく痛めてドクターに肩を借りてピッチ外に出なければならない状況になった。右ひざに包帯を巻いてプレーには戻ったが、そこにはもう「王様」ペレの姿はなかった。ブラジルは1-3で敗れ、「王国像」に影を落とした。
この試合で2点を取ったポルトガルのFWエウゼビオは「新しい王様」「ペレの後継者」と称賛され、「ペレの時代は終わった」と世界の人びとはささやいた。このときエウゼビオは24歳。ペレは「過去の人」のように言われていたが、エウゼビオより1歳しか年上ではなく、まだ25歳だった。
そしてペレにとって4回目のワールドカップ、1970年のメキシコで、ブラジルとペレは完全復活する。メキシコの暑さのなか、欧州勢はいつものように走ることができず、アメリカの宇宙飛行士のトレーニングを取り入れたブラジルはどの試合で主導権を握った。4年前の反省から選手の安全を守るために改善されたレフェリングもブラジルを助けた。そして3回目の優勝を飾ったブラジルは「王国」の名を確定させ、ペレは「王様」の座を取り戻したのだ。