『4軍くん(仮)』コミックス第1巻発売記念SPECIAL!大学野球を10倍楽しく見よう!特集〜第6回 法政大OB・稲葉篤…
『4軍くん(仮)』コミックス第1巻発売記念SPECIAL!
大学野球を10倍楽しく見よう!特集〜第6回 法政大OB・稲葉篤紀氏
『ヤングジャンプ』で連載中の『4軍くん(仮)』のコミックス第1巻発売を記念して、「大学野球を10倍楽しく見よう!」特集がスタート。東京六大学野球部OBの6人にご登場いただき、母校について熱く語ってもらった。最終回となる第6回は法政大の主軸として活躍し、プロ入り後も通算2000本安打を達成するなど"球界屈指の好打者"として名を刻んだ稲葉篤紀氏だ。

現在、日本ハムのGMを務めている稲葉篤紀氏
【遠投60メートルで合格】
── 稲葉さんは中京(現・中京大中京)高校3年の夏、愛知大会の決勝で、当時2年だった鈴木一朗(イチロー)選手のいた愛工大名電に敗れて高校野球を終えました。その時、どんな未来をイメージしていたんでしょうか。
稲葉 プロに行きたいという夢はありましたが、甲子園にも行けなかったのに何を言っているんだろうと現実を思い知らされて、高校で野球を辞めようと思っていました。
── えっ、野球を辞める?
稲葉 だから両親にも、高校までで野球を辞めたいと告げていました。
── それがなぜ、東京六大学の強豪、法政大学へ進むことになったのですか。
稲葉 当時の中京高校の西脇(昭次)監督から『とりあえず法政のセレクションがあるから受けてこい』と言われたんです。でも僕は野球を辞めるつもりでしたから、何の練習もしていなかった。そんな状態でセレクションに行きました。
── 高校生の稲葉さんは、法政大学にどんなイメージをお持ちでしたか。
稲葉 僕、愛知県で生まれ育ちましたから、法政どころか、東京六大学のことをほとんど知らなかったんです。神宮球場といえばヤクルトスワローズのイメージしかありませんでした。僕が高校3年の時(1991年)、ヤクルトは野村(克也)監督のもと、広澤(克実)さん、池山(隆寛)さん、古田(敦也)さんが揃って、ちょうどチームが強くなっていく途中(そのシーズンは3位、翌年からリーグ連覇、1993年に日本一)でした。中日と優勝争いもしていましたし、僕にとっての神宮はヤクルトの本拠地でしたから、法政には何のイメージも持っていませんでしたね。
── でも法政のセレクションを受けに行って、合格を勝ちとったんですよね。
稲葉 セレクションでちょっとした奇跡が起こったんです(笑)。僕はまず、甲子園に行けなかった組としてセレクションを受けました。そこで受かって、次は甲子園に出た組と一緒にもう一度セレクションを受けたのですが、夏の大会のあと、まったく身体を動かしていなかったこともあって、遠投で60メートルしか投げられませんでした。
60メートルといえば僕が小学生の時に投げた距離ですよ。風がアゲンストだったこともありましたが、それにしてもあり得ない(苦笑)。これはダメだと思っていたら、バッティング練習になると、木のバットだったのにけっこうな数のホームランを打てました。なぜあの時にあんなに打てたのか、じつは今でもさっぱりわかりません......神風が吹いてくれたのかな(笑)。
── 法政のセレクションですから、錚々たるメンバーが揃っていたんですよね。
稲葉 甲子園にも出た、いわば全国でもトップレベルの同級生たちですから、『うわーっ、テレビで見たあの選手だ』という、レベルの高さを痛感させられました。そんななかでも合格をいただいて、実際に法政の野球部に入ったら、いやいや、山本浩二さん、田淵幸一さん、江川卓さん、小早川毅彦さん......ほかにも子どもの頃にテレビで見ていたプロ野球選手のOBの方々がたくさんいらっしゃるじゃないですか。そういう法政の歴史だけじゃなく、東京六大学野球の歴史にも驚かされました。これはすごいところに来ちゃったなと......僕は愛知の田舎育ちでしたから、東京六大学の雰囲気に圧倒されていましたね。
【4年最後の秋に念願の優勝】
── そんなふうに謙虚におっしゃいながら、しっかり1年の春には神宮デビューを果たしています。
稲葉 それはファーストのレギュラーだった先輩がケガをしたからで......当時は先輩方も怖くて厳しかったし、ついていくだけで必死でした。一人で東京へ出てきて、寮生活も初めて。1年生は4年生と相部屋で、洗濯から食事、マッサージまで身の回りの世話はすべてやらなければなりません。24時間365日、周りに気を遣い続ける生活はかなり大変でした。
── 法政と言えば「押忍」を使う、東京六大学で唯一の応援団が自慢だと聞いたことがあります。
稲葉 法政の応援団のみなさんは本当に一生懸命、応援してくれていました。でも、僕らが試合で負けると、応援団の下級生が走って帰らされていたんです。
── 野球部じゃなくて?
稲葉 そうなんです。そういう理不尽がまかり通る時代でしたからね。『おまえらの応援が足りないからだ』って......だから僕が下級生の時、同じ学年の応援団員から『頼むよ、勝ってくれよ』って、よく言われていました(笑)。
── 2年春にはヒザの靱帯を痛めて、稲葉さんは春のシーズンを棒に振ります。それでも2年秋に復帰を果たしました。
稲葉 2年の秋といえば、東大に負けたことが真っ先に浮かびます。僕が4番を打っていたのですが、東大に勝ち点を落としたのは40何年ぶりとかで、その当日、(山本泰)監督から部屋へ呼ばれて、こっぴどく叱られました。
── それが4年の秋には4番バッターとして法政をリーグ優勝に導きます。"血の法明戦"で宿敵・明治大学を下しての優勝でしたね。
稲葉 明治には同じ匂いを感じるんですよ。早慶は品がある大人の野球、東立はクレバーな野球、法明はとっぽくて血の気の多い野球(笑)。それまでの僕は優勝に縁がなく、負け続けていた野球人生でした。それが初めて優勝を味わいました。大学でも3年まではあまり勝てそうな雰囲気を感じませんでしたし、これはこのまま優勝できずに大学時代を終えてしまうのかなと思っていたんです。
それが強い明治に勝ってのリーグ優勝でしたから、本当にうれしかった。明治は川上憲伸くんが1年生で、僕らとの試合にも投げてきたんじゃなかったかな......最後の最後、4年の秋に優勝してみんなで喜び合えたことは、僕にとっては特別なことでしたね。
── 優勝して、(野球部の寮があった)武蔵小杉で盛り上がったんですか。
稲葉 その日にどうしたのかは覚えていませんが、だいたい武蔵小杉の焼鳥屋さんに行って、もう一軒行って、というのがいつものコースでしたね。そういえば駅前の『中華一番』ってお店、今もあるのかな......あそこのナス味噌、おいしかったんですよね。また食べたいなぁ。
稲葉篤紀(いなば・あつのり)/1972年8月3日生まれ、愛知県出身。中京高(現・中京大中京)から法政大に進み、94年ドラフト3位でヤクルトに入団。入団1年目から出場機会を得て、97年と01年のリーグ優勝&日本一に貢献。05年にFAで日本ハムに移籍し、07年は首位打者と最多安打のタイトルを獲得。12年に通算2000安打を達成し、14年限りで現役を引退。21年の東京五輪では侍ジャパンの監督として金メダル獲得。同年10月に日本ハムGMに就任した。