野球人生を変えた名将の言動(8)星野伸之が語る仰木彬 後編(前編:仰木彬の屈辱的な投手交代に「頭にきた」。試合後、「一度…
野球人生を変えた名将の言動(8)
星野伸之が語る仰木彬 後編
(前編:仰木彬の屈辱的な投手交代に「頭にきた」。試合後、「一度お話をさせてもらえませんか?」と問い詰めた>>)
1995年、96年にオリックスをパ・リーグ連覇に導いた仰木彬監督。オリックスのエースとして活躍した星野伸之氏に聞く仰木監督とのエピソードの後編は、選手の起用や采配、1996年にリーグ優勝を決めた神戸での出来事、球史に残る「10.19」にも話が及んだ。

1988年10月19日のロッテとのダブルヘッダー2試合目、優勝が絶望的になり頭を抱える仰木監督(中央)
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――当時のオリックスの打線は日替わりオーダーでした。前の試合で猛打賞だったバッターを、次の試合ではスタメンで使わないこともありましたね。
星野伸之(以下:星野) 仰木さんからすれば、「前の試合で3安打も打ったからといって、次の日も必ず3本打てるのか?」みたいなところもあったんでしょう。極端な話、イチローくらいにならないと試合に出続けることができなかった。だから、シーズンが終わった時に規定打席に達していない野手も何人かいたんですが、全員がある程度いい成績を残していましたし、何よりチームが勝てていましたね(1994年から2001年まで、オリックスで8年間指揮を執ってAクラスが6回、リーグ優勝2回、日本一1回)。
――1995年に日本シリーズで対戦したヤクルトの野村克也監督は、「オリックス打線はイチローを中心にまわっている」とコメントしました。やはり、打線はイチローさん中心でしたか?
星野 まさに、1点がほしい時は「とにかくイチローにまわせ」でしたよ。だから、イチローが1番だったら8番、9番が粘ってイチローまでまわす、みたいな感じでした。あと、4、5番を任されていた(トロイ・)ニールは、打率は高くないけどチャンスに強かった。だから、ずっと主軸で起用していたんでしょう。仰木さんは打線を機能させることに長けていたと思います。
――仰木監督のもとで野球をして、新しい発見はありましたか?
星野 (前編でも話したように)先発ローテーションを任されるようになってから意識していた「先発したら完投」という考えが変わりました。後ろに鈴木平や野村貴仁、平井正史ら強力なリリーフ陣がいましたし、「とにかく5回まではしっかり抑えよう」と。完投した時よりも疲れを感じることもありましたね。"力む"わけではなく、「5回を9回と思って投げよう」とすごく集中していたので。
リードして5回を迎えた時にマウンドからブルペンを見て、平井が力を入れて投球練習を始めたら「絶対に逆転されてはいけない」とも思いましたね。リードを保たないと、別のピッチャーも投球練習をしなければいけなくなりますから、必死で投げましたよ。
――逆に、リリーフ陣はフル回転で大変だったんじゃないでしょうか。
星野 そうですね。鈴木も、2連投したあとに移動日を挟んで、次のカード頭の試合も出て3連投ということもザラにありました。鈴木とは普段からよく話す仲だったんですが、「また、仰木監督から『3連投いくぞ』って言われちゃいました」と報告してきたこともありました。
ただ、仰木さんはリリーフ陣に相当気を遣っていました。リリーフ陣を集めてお金を渡し、「みんなで飯でも食ってこい」と言ったりしていたみたいですし。お金を受け取った鈴木が「どうしたらいいんですか?」と聞いてきた時は、「素直に『ありがとうございます』と受け取って、全部使い切ったらいいんじゃない?」って言いましたよ(笑)。
――仰木監督は指揮官でありながら、サードコーチャーを担った時期もありましたね。
星野 その時は、走塁の判断ミスなどが何回かあったんですよ。サードコーチャーとどういう話をしたのかはわかりませんが、「もう自分でやるしかない」と思ったんでしょう。そういったリスク回避、ひとつ間違えたらえらいことになる、という仰木さんの意識は、あの(※)「10.19」を経験していることも大きいと思うんです。ものすごく悔しい思いをしたはずですから。
(※)1988年10月19日の近鉄vsロッテのダブルヘッダー。仰木監督率いる近鉄が2連勝すればパ・リーグ優勝が決定したが、1試合目に勝利したものの2試合目が延長10回で時間切れの引き分けとなり、西武の優勝が決まった。
――「10.19」について、仰木監督と話をしたことはありますか?
星野 仰木さんと一番長く話をしたのが「10.19」の話題でした。その2日前の10月17日、阪急(現オリックス)と近鉄の試合が西宮球場であったのですが、阪急の先発だった僕は完投勝利を挙げたんです。すでに阪急が優勝する可能性はなかったので、「打つなら打て」という捨て身の気持ちで投げたのが功を奏したのか、(ラルフ・)ブライアントに打たれたソロ本塁打の1点に抑えることができました。
リーグ優勝のためにほとんど後がなくなっていた近鉄からすれば、痛恨の敗戦です。その試合について、のちに仰木さんから「どんな気持ちで投げていたんだ?」と聞かれたことがあって。「ホームランでも何でも打つなら打ってくれ、と思っていました」と答えたら、「あぁ、それは勝てんわ......」という反応でしたね。確かにあの試合は、プレッシャーがまったくなかった阪急に対して、近鉄のバッターたちは傍から見てもガチガチでした。
――翌1989年はその悔しさを晴らすように、仰木監督率いる近鉄がパ・リーグを制覇しました。
星野 しかも、僕らオリックス(1989年に阪急からオリックスに球団名変更)とゲーム差なしの優勝。最後まで手に汗握る展開での優勝でしたね。仰木さんは本当にドラマがある監督でした。オリックスの監督になってから2年目(1995年)のシーズン前には、阪神・淡路大震災もあった。「こんな時に野球ができるのか?」というところから始まり、「がんばろうKOBE」が合言葉になって......仰木さんはオリックスをまとめ、リーグ優勝に導いてくれました。
1995年はグリーンスタジアム神戸で優勝することができませんでしたが、翌年のリーグ優勝と日本一は神戸で決めることができました。1996年はリーグ優勝がかった日本ハム戦で、1点ビハインドのまま9回2死まで追い詰められたんです。「今年も神戸で優勝できないのかな......」とあきらめかけた時に、代打のD・J(ダグ・ジェニングス)がホームランを打って土壇場で追いついた。
僕は球場のロッカーにあるテレビで試合を見ていたのですが、D・Jがホームランを打った瞬間にバーっと着替えてグラウンドに出ていったのを覚えています。最後にイチローがサヨナラヒットを打って神戸で優勝を決めるっていうのも、まさにドラマでした。
――震災があった神戸に、オリックスの優勝が元気を与えましたね。
星野 震災で甚大な被害が出ましたから、お客さんは来ないだろうと思っていました。だから、オープン戦でグリーンスタジアム神戸の一塁側の席が埋まっている光景を見た時は感動しましたよ。
それからシーズンに入り、序盤は勝率5割ぐらいでチーム状態はよくなかったんですが、首位に立ってからは2位以下を突き放すことができた。ただ、10ゲーム差くらいついても、「気を緩めたら逆転されてしまう」という緊張感は常に持っていました。それこそ、1989年に近鉄が優勝した年は、オリックスが首位を走っていたのにひっくり返されましたから。有利ではあるけど、決して気は抜けないという雰囲気がチームにあったのは、仰木さんの豊富な経験があったからだと思います。
――仰木監督の野球は「仰木マジック」とも称されていましたが、言葉で言い表すとしたら?
星野 「自分が思っていることを貫き通す野球」という感じですね。三原脩さんが近鉄の監督の時にコーチを務めていましたし、三原さんの影響が大きいんじゃないでしょうか。打線の組み方や投手交代のタイミング、守備のシフトなどもそうですし、確率を重視した起用や采配をしていた。相手投手との相性で打順を変えたり、僕が経験したように、あとひとつアウトを取れば勝ち投手になるという場面でも、リスクを回避するためにピッチャーを代えたり......。
それで選手たちから不満も出るんでしょうけど、「自分は全部受け入れる」という感じでした。チームが勝つために我慢してくれ、というスタンスだったんじゃないかなと思います。
【プロフィール】
星野伸之(ほしの・のぶゆき)
1983年、旭川工業高校からドラフト5位で阪急ブレーブスに入団。1987年にリーグ1位の6完封を記録して11勝を挙げる活躍。以降1997年まで11年連続で2桁勝利を挙げ、1995年、96年のリーグ制覇にエースとして大きく貢献。2000年にFA権を行使して阪神タイガースに移籍。通算勝利数は176勝、2000三振を奪っている。2002年に現役を引退し、2006年から09年まで阪神の二軍投手コーチを務め、2010年から17年までオリックスで投手コーチを務めた。2018年からは野球解説者などで活躍している。