【第11回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」


伝説となったラッシャー木村のマイク・パフォーマンス

 日本プロレスに始まり、東京プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、UWF、全日本プロレス、そしてプロレスリング・ノアと、ラッシャー木村は40年間、リングのマットに立ち続けた。そして、最後の別れの時――。弟のように可愛がられてきたアニマル浜口は、木村に渾身の言葉を投げかけた。

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国際プロレスのエース・ラッシャー木村(6)

 1983年4月15日、新日本プロレス福山大会を最後に、ラッシャー木村、寺西勇、アニマル浜口のトリオは解散。浜口が長州力と維新軍を結成すると、寺西も合流。木村はバッドニュース・アレンやアブドーラ・ザ・ブッチャーと共闘するなどして国際軍団にこだわり続け、維新軍の副将・アニマル浜口とも対戦した。

「プロレスラーとしてリングに上がったからには、誰が相手でも気持ちを切り替えて、思い切りぶつかっていくだけでしたが、木村さんとの試合は楽しかったですね。ゴングが鳴ったら木村さんを思い切り叩いて、蹴っ飛ばして、投げ飛ばして。逆に、木村さんからもチョップでバンバン叩かれて。それが快感でした。

 木村さんは以前も話したように、とにかく身体が丈夫だった。我慢強くて、何があっても痛いとは言わない。だから僕も、遠慮なくいかせてもらいました。もしかしたら、木村さんはガンガンやっているようで、どこか抑えていたのかな。それもまた、木村さんらしいですね」

 ラッシャー木村は角界から日本プロレスに入門後、東京プロレス、国際プロレスと移り、国際プロレス崩壊後は、「国際軍団」として新日本プロレスのリングで活躍した。その後、第1次UWF結成に参加。全日本プロレスでは国際プロレス出身の剛竜馬、鶴見五郎、アポロ菅原と「国際血盟軍」を結成したものの、ジャイアント馬場が死去すると、三沢光晴らとプロレスリング・ノアを旗揚げする。合計7団体を渡り歩き、還暦を迎えた後も現役を続行。ジャイアント馬場を抜く当時の日本人最高齢レスラーの記録を打ち立てた。

 そして、2004年7月10日、「体力の限界、これ以上は関係者に迷惑をかけられない」と、ノアの東京ドーム大会にビデオレターを送って、引退を表明した。

「木村さんが40年間、63歳まで波乱万丈で数奇なプロレス人生を続けられたのは、誰からも愛される人間性だったからでしょう。

 それにしても、あれだけしゃべらなかった人が、晩年、全日本プロレスでマイク・パフォーマンスをしたでしょ。不思議ですね。人間なんて、わからない」

 ラッシャー木村のマイク・パフォーマンスは殺伐とした会場の雰囲気をほのぼのとさせ、ファンは大笑い。人気を集め、木村の話を聞きに会場を訪れ、テレビ中継を楽しみにしていたファンも少なくなかった。

「俺はな、これだけ馬場と試合をすると、とてもな、他人とは思えないんだよ。だからな、1回でいいからな、今度な、お前のことを兄貴って呼ばせてくれ。いいな、コノヤロー!」

「渕(正信)、秋田美人はどうだ? 秋田美人はいいぞ。渕、秋田美人をもらえよ、コノヤロー!」

「渕、お前な、いい加減にしろよ。こんなタイツのなかにマイクを入れて。マイクが病気になったらどうすんだ、コノヤロー! そんときはな、お前いいか、病院に連れて行けよ!」

 ラッシャー木村の、伝説のマイク・パフォーマンスは尽きない。

「あれは、ノアに行ってからかな。女房の店に久しぶりに来られてね。昔より、もうすっかり酒量が落ちて、話をしているうちにカウンターでウトウトしてしまって……。あれが、木村さんと呑んだ最後でした」

 木村は引退直後、脳梗塞で倒れ、右半身不随となって車イス生活を送った。公(おおやけ)の場には現れず、浜口たちが見舞いに行っても、頑(がん)として会おうとはしなかった。2010年5月に死去。死因は腎不全による誤嚥(ごえん)性肺炎。享年68歳――。

 葬儀は親族のみで行なわれ、その1ヶ月後、ノア主催のお別れの会が東京・ディファ有明で開かれ、アニマル浜口が弔辞を読み上げた。

「プロレス界は、あなたを忘れることはありません」

 そして、涙ながらに遺影へ向かって、”気合”の10連発を行なった。

「気合ダァ、気合ダァ、気合ダァ、気合ダァ、気合ダァ、気合ダァ、気合ダァ、気合ダァ、気合ダァ、気合ダァ……オイ! オイ! オイ!」

(つづく)
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