) 高橋奈七永に初めて連絡したのは、昨年2月のこと。うつ病を告白した高橋が、「うつ病で悩んでいる人がいたら話を聞きます」という趣旨のツイートをした時のことだ。"女子プロレス界の人間国宝"が、一般の人たちに向けてそのようなツイートをしたことに…

 高橋奈七永に初めて連絡したのは、昨年2月のこと。うつ病を告白した高橋が、「うつ病で悩んでいる人がいたら話を聞きます」という趣旨のツイートをした時のことだ。"女子プロレス界の人間国宝"が、一般の人たちに向けてそのようなツイートをしたことに驚いた。


うつ病から復帰した

「女子プロレス界の人間国宝」高橋奈七永

 私もうつ病を経験したこと。今も睡眠薬が手放せないこと。再発に怯えていること。ありのままを綴ると、高橋から丁寧な返信がきた。そのなかで、特に印象的だった言葉がある。「病気になる前には戻らないんだなと思う」――。

 寛解(かんかい)しても、元の100%元気な自分にはもう戻れない。それでもうつ病への理解を広める活動をしたいという高橋は、昔とは違う優しさを手に入れたのだと推測する。「気持ちが安定したらインタビューをさせてください」と伝え、その時のやり取りは終わった。

 その後、高橋は4月にGLEATにてプロレス復帰。8月には古巣スターダムでワールド・オブ・スターダム王者の朱里と対戦した。

 高橋がスターダムのリングに上がることに、ファンからは批判の声が相次いだ。「戻ってくんな」「老体はいらない」――批判の域を超えた、誹謗中傷のツイートも少なくなかった。ひどいな、と思った。うつ病だって言っているのに。

「プロレスで起きることは、個人の高橋奈苗(本名)とすぐにはつながらないというか。関与させないようにはなっているので、いくら落ち込んでいようがプロレスのリングは別だと思っている。そういうふうに自分を保ってきたけど、やっぱりどこかで気にしますね」

 高橋奈七永の心はいかにして強くなり、そして壊れてしまったのか。

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 高橋は1978年、埼玉県川口市に生まれた。家族構成について聞くと、「どう言っていいのか......」と困った顔をする。母ひとり、子ひとり。幼少期に父と暮らした記憶はあるが、小学校に上がる前に父は家を去った。のちに母は「お父さんは家族の元に帰っていった」と話した。

 人見知りで、内気な性格。「あの子と遊びたいな」と思っても、自分からは言い出せない。それでも学級委員長を務め、クラスのだれとでも分け隔てなく仲良くした。

「母子家庭だったからか、子供の頃はしっかりしてましたね。英会話スクールも塾も、自分で通うと決めて。英語の勉強がしたくて、附属の大学に英文科がある中学を選んで受験しました」

 中高一貫の女子校に入学し、バレーボール部に入部。しかし全国大会で優勝するような強豪校で、部員は小学校から推薦で入ってくる人たちばかり。初心者の高橋は端から無理だと諦め、マネージャーを務めた。選手たちをサポートし、全国優勝したい一心で打ち込んだ。

【プロレスとの出合いと、強さへの憧れ】

 中学2年生のある日、テレビをつけると女性が丸刈りにされていく異様な映像が映った。べつの髪の長い女性が泣きながら止めようとするも、周りの人たちに抑えられ、先の女性の頭は容赦なくバリカンで刈られていく。観念したように目を瞑り、ただひたすらその"儀式"が終わるのを待つ女性は、アナウンサーに「山田敏代」と呼ばれていた。高橋は内から湧き出る興奮を抑えながら、メモ帳にそっとその名前を書いた。

 1992年8月、山田敏代と豊田真奈美の敗者髪切りマッチ――。それが高橋とプロレスとの出合いである。

「母親が男子プロレスが好きで、『週刊プロレス』とか専門誌が家に置いてあったんです。それまではプロレスって血だらけの野蛮なイメージしかなかったから、『こんなところに置かないで!』って言ってたんですよ。でも、髪切りマッチを見た日からは雑誌を読み漁って、観戦にも行くようになりました」

 団体対抗戦の殺伐としたムードのなか、高橋は全日本女子プロレスの"強さ"に憧れた。特に好きだったのが、堀田祐美子。蹴りのスタイルがカッコよく、売店に行くと優しい。そのギャップの虜になった。中学を卒業したらプロレスラーになろうと思ったが、母に説得されて高校に進学。格闘技の部活がなかったため、せめて腕力をつけようとアーチェリー部に入部した。

 高校1年の夏休み、「憧れの職業の人にインタビューをする」という宿題が出た。高橋が全女の事務所に電話を掛けると、堀田は快くインタビューを受けてくれた。そうなると、もう気持ちは止められない。高橋は堀田に「高校を辞めてプロレスラーになりたいです」と思いの丈をぶつけた。すると、後日、高橋が母と一緒に全女の興行を観戦した際、堀田は高橋の母に「プロレスをやらせてあげてください」と頼んでくれた。

 プロレス好きの母は「なれるわけないよ、あんな厳しい世界」と言っていたが、高橋が早朝からトレーニングを始めたこともあり、次第に娘を応援するようになる。高橋は母に「プロレスラーになりたい人が行く道場があるよ」と言われ、アニマル浜口ジムの門を叩き、高校を中退した。

【プライベートの確執がリングに持ち込まれた時代】

 アニマル浜口ジムに1年通い、全女のオーディションに合格。1996年7月14日、後楽園ホールでの中西百重戦でデビューした。その後、中西とはタッグチーム「ナナモモ」を組み、活躍することになる。

 新人の試合は基礎的な技だけで、派手な技や頭から落とす大技はやらない。それでも客を満足させられるかどうかが試される。負けたら次の日は試合が組まれず、強くなければ上に上がれない。「毎日が闘い」と刷り込まれた。

 年間200、250試合をこなすのは当たり前。過酷な日々のなか、草むらや坂道で試合をしたこともある。デビュー1年目の北海道巡業の時には、大会の途中でリングの鉄柱が折れるアクシデントがあった。

「アジャコングさんとかがエニウェア・フォール・マッチ(どこでもフォールできる試合形式)にして、ホントの本気で場外でやり合ったら、お客さんは大喜びで、すごい盛り上がったんですよ。どんな場所でも、どんな状況でも納得させられる。それも強さだということを勉強させてもらいました」

 1997年10月、全女は手形不渡りによる銀行取引停止処分を受けた。選手が大量離脱し、残った選手たちで「新生全女」として再出発することになった。

「20歳になるかならないかくらいで、正直よくわかってなかったんですけど、『うちらがいるから、大丈夫でしょ』という自信がありましたね。上とか下とか関係ないし、やってやるっていう気持ち。でもやっぱり、出る杭は打たれるんですよ。すごい打たれる」

 全女は選手間のプライベートの関係性が、そのままリングに持ち込まれていたと言われる。女の殺伐とした争いは常につきまとっていた。高橋が前川久美子とリング上で敵対していた時も、関係性は最悪だったという。だからこそ試合が組まれた時代だった。フロントは人間関係の悪さを煽ってきた。

「仲が悪いんだから、試合させなきゃ。それ以上、燃えない。ちょっと燻っているものに着火剤を入れるようなものです。試合をするって、そういうこと」

【「体の会話」こそがプロレス】

 2005年4月17日、全日本女子プロレスは解散。翌年10月1日、高橋は女子プロレス団体「プロレスリングSUN」を旗揚げした。アメージング・コングを筆頭とした対外国人選手を軸にした団体。世界のプロレスと出合ったことで、高橋のなかで大きな変化があった。

「それまで私がやってきたことは、『全女のプロレス』としか言いようがないプロレスだったんですよ。全女は右組手なんですけど、世界共通のプロレスができるように左組手に変えたんです。だけど、9年くらい全女のプロレスをやってきてるから、習得が遅くてトイレで泣いたり。でも、会社から依頼されてコーチを買って出てくれた日高郁人さんが、優しく厳しく教えてくださって、それで火がつきました」

 旗揚げ戦の相手は、アフリカ55。アフリカの選手で、「人を55人殺してきた」というのが名前の由来だ。格闘技の動きをするが、プロレスができるような選手ではなかった。しかしこの試合で、高橋は「これがプロレスだ!」というものを掴めたという。「一流のプロレスラーはホウキとも試合ができる」と言われるが、その域に足を踏み入れたような気がした。

「初めて対戦する選手でも、左組手ができることによって体で会話ができる。全女に対するプライドやリスペクトはあったんですけど、全女の時は会話というよりも"闘い"のほうが強かったというか。『あなたこう来るのね、わたしはこう行くよ』みたいな、レスリングの体の会話。もうちょっと深いところに自分が行けた気がしたんですよね」

(後編:うつ病から復帰→誹謗中傷。それでも「今の女子プロレスはヌルい」と声を上げ続ける理由>>)

【プロフィール】
■高橋奈七永(たかはし・ななえ)

1978年、埼玉県川口市生まれ。プロレスラーを志し、高校を中退。1年間、アニマル浜口ジムに通う。1996年7月14日、全日本女子プロレス後楽園ホール大会にて、対中西百重戦でデビュー。全女解散後、プロレスリングSUNを旗揚げ。2008年4月にフリーに転向し、夏樹☆たいよう、華名(現WWEのASUKA)とともにトリオユニット「パッション・レッド」を結成。2010年、プロレス大賞「女子プロレス大賞」を受賞。2011年1月、スターダム旗揚げに参加。2015年5月に退団し、6月にSEAdLINNNGを旗揚げする。2021年12月、SEAdLINNNG退団を発表。うつ病を患っていることを告白する。2022年4月、GLEATにて復帰し、8月から古巣スターダムのリングに上がる。10月、優宇とのタッグで「ゴッデス・オブ・スターダムタッグリーグに出場し、優勝を果たした。Twitter:@nanaracka

【著者プロフィール】尾崎ムギ子(おざき・むぎこ)
1982年4月11日、東京都生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒業後、リクルートメディアコミュニケーションズに入社。求人広告制作に携わり、2008年にフリーライターとなる。「web Sportiva」「集英社オンライン」などでプロレスの記事を中心に執筆。著書に『最強レスラー数珠つなぎ』『女の答えはリングにある』(イースト・プレス)がある。Twitter:@ozaki_mugiko