石毛宏典が語る黄金時代の西武(5)辻発彦 前編(連載4:「もっと目一杯投げろよ」郭泰源に思っていたこと。どの球種も一級品…
石毛宏典が語る黄金時代の西武(5)
辻発彦 前編
(連載4:「もっと目一杯投げろよ」郭泰源に思っていたこと。どの球種も一級品で「どんな打者でも抑えられた」>>)
1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。同時期に在籍し、11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成したチームリーダーの石毛宏典氏が、当時のチームメイトたちを振り返る。
前回の郭泰源に続く5人目は、黄金時代にリードオフマンとして活躍した辻発彦氏(「辻」は本来1点しんにょう)。1983年に社会人野球の日本通運からドラフト2位でプロ入りし、正二塁手として8度のゴールデングラブ賞を受賞するなど堅守を誇った。引退後は複数の球団でコーチを経験し、2017年からは古巣・西武の監督を6シーズン務めて2度のリーグ優勝に導いた。
入団当初の印象やプロ入り後に変えたというバッティングスタイルなど、当時のエピソードを石毛氏に聞いた。

西武黄金時代のセカンドとして活躍した辻発彦。1990年頃から1番に定着した
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――西武入団時の辻さんの印象を教えてください。
石毛宏典(以下:石毛) 観察力が優れていて、現状を把握できる眼力があるなという印象がありました。「プロ野球界でどうすれば飯を食っていけるか」「どうすればレギュラーになれるか」をすぐに察知したのか、アマチュア時代のプレースタイルを変えることから始めていましたね。
社会人野球の日本通運時代はサードを守って4番など主軸を打っていたと思いますが、プロ入り後はバッティングスタイルを変えた。とにかく、しぶとく食い下がる姿勢が際立っていました。
辻が入団した時の西武の内野は、ファーストとサードを兼任していたスティーブ(・オンティベロス)、サードには秋山幸二がいて......セカンドの山崎裕之さんが引退される時期だったかな。そういったチーム事情もあって、辻はサードではなくセカンドのレギュラーを目指すことになったんです。
――辻さんのルーキーイヤーである1984年は広岡達朗監督が指揮を執っていました。広岡さんのノックで守備を鍛えられたんでしょうか。
石毛 広岡さんの指導は、まず守備から入りますからね。置いてあるボールを捕球して、ワンステップで投げる動作を反復練習させたり、とにかくファンダメンタル(基礎)をたたき込んでいました。
――プロ入り後にプレースタイルを変えたということですが、もともとは長打を期待されるバッターだったんでしょうか?
石毛 アマチュア時代は長打も狙っていたと思いますが、早々に長く持っていたバットを短く持つようになって、逆方向に打ち出したんです。厳しいプロの世界で生きていくために活路を見出そうとしていたんだと思います。
彼は両腕をそろえて伸ばすと内側がぴたっとくっつく、いわゆる"猿手"だったこともあって、通常ではできないような腕の使い方ができたらしいんです。細かくは覚えていないのですが、「腕にこういう特長があるんで、(こういうバッティングが)できるんです」みたいなことを言っていたような気がします。
――内角のさばきが上手かった印象がありますが、猿手が有利に働いた?
石毛 どれだけ関係していたかはわかりませんが、インコースにくる窮屈なボールでも、無理してでも逆方向に打とうという技術は常に磨いていましたね。
――守備を鍛えられてからセカンドのレギュラーに定着し、ショートの石毛さんとの連携プレーも多かったと思います。並んで守っていて、辻さんの守備をどう見ていましたか?
石毛 私の愛称が"ハチ"で、辻の愛称が"ハツ"とか"はっちゃん"だったので、2人が絡む併殺が「ハッチャンダブル」なんて呼ばれて。彼は決して器用なタイプではないかもしれないけど、球際に強い選手でした。サードからセカンドにコンバートされると動きは逆になりますが、うまく順応していましたね。
――先輩の石毛さんにも、言いたいことは言うタイプでしたか?以前、工藤公康さんのお話をお聞きした時、ピンチでマウンドに声をかけにいった石毛さんに対して、工藤さんが逆に檄を飛ばす場面があったということでしたが。
石毛 辻は私の2歳年下ですが、ちゃんと言いたいことは言うし、遠慮するタイプではなかったですね。私からの辻への送球が乱れた時などに、苦笑いしながら「どこに投げてるんですか!」って言ってきたこともあったかな。まあ、先輩の私に対して、そんなに強くズバっとは言えないですよね(笑)
――辻さんはプロ入りから数年間、打順は9番などが多かったと思いますが、1990年から1番に定着します。1990年といえば、以前に石毛さんから「1980年中盤~1990年代中盤の西武のなかでも、もっとも強かったシーズン」とお聞きしましたが、辻さんの1番定着はチームとしても大きかった?
石毛 辻が1番に定着して、2番に謙ちゃん(平野謙)、3番が秋山幸二、4番に清原和博、5番に(オレステス・)デストラーデ、6番に自分が入って......という形で打順が固定されましたよね。1990年の日本シリーズでは、巨人と対戦して4連勝で日本一になることができましたが、4試合とも辻が第1打席に出塁してチームに勢いをつけてくれました。
そういうことも含めて、1990年の西武はチームとして完成度、隙のなさがより一層強固なものになった感じはします。辻は1番になってから首位打者も獲ったんじゃないかな(1993年に首位打者を獲得)。
ちなみに、辻が9番を打っていた時に私が1番を打っていたんですが、1番バッターとしては打点が多かったシーズンがあるんです(1986年にキャリアハイの89打点をマークし、パ・リーグMVPを獲得)。辻がそれに対して、「それは僕ら(下位打線の出塁)のおかげですよ!」なんてことを言ってきたりしてね(笑)。その頃は8番の伊東勤、9番の辻が出塁して、1番の私が返す。そういう場面は確かに多かったです。
(後編:指揮官・辻発彦をどう見ていたか。「いいさじ加減」ができていたが、松井稼頭央新監督に課題も残した>>)
【プロフィール】
石毛宏典(いしげ・ひろみち)
1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。