立石充男氏が今でも思い出す野村沙知代さんとの初対面 稀代の名将・野村克也さんの影響を受けた教え子は数え切れない。プロ通算…
立石充男氏が今でも思い出す野村沙知代さんとの初対面
稀代の名将・野村克也さんの影響を受けた教え子は数え切れない。プロ通算657本塁打など輝かしい実績を残した現役時代に裏打ちされた高い技術、豊富な知識、指導理念……。すべて奥が深く「野村の考え」として引き継がれている。南海時代、選手兼任の野村監督に鍛えられた立石充男氏もその一人。多くのことを学び、それらを野球界の後輩たちに伝え続けているが、野村夫人の沙知代さんとも強烈な思い出があるという。
立石氏が苦笑しながら明かしたのは、初芝高(大阪)から南海に入団したプロ1年目のオフの出来事だ。「あの当時、寮には電話当番があって、順番で回ってくるんです。その日は僕じゃなかったんですけど、午後8時頃だったかな。『立石、女の人から電話だぞ』って呼ばれたんです。誰って聞いたら『野村さんって言ってるぞ』って」。ピンと来なかったし、全く心当たりがなかったという。一体誰だろう。そう思いながら「もしもし」と言った。
電話の向こうから聞こえてきたのは「立石くん、野村沙知代よ」。監督夫人の声だった。だが、まだ一度も会ったことがなかった高卒1年目の18歳は、そう言われてもわからなかった。何と「どこの野村さんですか?」と言ってしまったのだ。当然、これには「あんた、何言ってるの! 監督の奥さんの名前、わからないの!」と強い反応が……。それでもあろうことか、立石氏は続けてしまった。「監督の奥さんの名前は違うんじゃないですか」と……。
野村さんはその頃まだ、前妻と離婚しておらず、立石氏が聞いていた夫人の名前は確かに違っていた。それでも、沙知代さんはすでにチームでも知られた存在だ。「また『あんた、何言っているの!』って言われて。12月何日だったか忘れましたが、その日に婦人会があるから『河埜(敬幸)くんと2人で受付に来なさい!』って」。言うまでもなく、先輩の河埜氏には「お前、そんなこと、言ったんか」と驚かれたそうだ。
リンカーンコンチネンタルでの送迎…沙知代さんが「乗って」
そして、指定された日、受付に行った。「どんな人だろうかなって思っていたんですけど、びっくりしました。えーってなりました」。初めて見た沙知代さんの姿は今でもよく覚えているそうだ。「30人くらいの先頭に立って、歩いてくるわけですよ、ドレス着て……。すっごい、べっぴんさんでした。めっちゃ、スタイルも良かったし」。芸能人に例えれば「安室奈美恵さんをちょっと大きくした感じだった」という。
あの電話での一件については「何も言われませんでした。全然普通でした。受付の仕事が終わって『ご苦労様、ありがとう』って」。河埜氏とともに会場のホテルから難波駅まで車で送ると言われた。「リンカーンコンチネンタルですよ。沙知代さんが『乗って』って。すごい車で、本当に乗っていいのかって思いましたね」。車が駅に着くと人が集まってきたという。「どんな人がってことだった思いますけど、降りたのは僕らでしょ、ああって感じで、みんないなくなりましたけどね」。
野村さんにかわいがられ、野球に関するいろんなことを学んだ立石氏だが、この一件で、沙知代夫人に覚えられたのも大きかったのかもしれない。「次の年、練習中に、まだよちよちだったカツノリ(野村克則)の子守をしたこともありました。とにかくチョロチョロするんですよ。このことをカツノリに言ったら大笑いしてましたけどね」。
立石氏はプロ3年目の1978年に1軍に昇格。内野のユーティリティプレーヤーとして活躍した。打率.286の好成績を残した1984年には「伝説の隠し球」でも有名に。現役引退後は南海・ダイエー、中日、近鉄などでコーチを務め、多くの選手を育てている。熱血コーチとしても知られる存在だが、熱すぎるゆえに仰天のエピソードも……。中日1軍コーチだった1996年、ナゴヤ球場で、あの闘将・星野仙一監督に向かって怒鳴ったことがあったという。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)