中日を戦力外になった南牟礼豊蔵氏…阪神指揮官に“嘘”を言って入団した 人生、そんなに甘くはなかった……。1991年5月に…
中日を戦力外になった南牟礼豊蔵氏…阪神指揮官に“嘘”を言って入団した
人生、そんなに甘くはなかった……。1991年5月にオリックスからトレードで中日に移籍した南牟礼豊蔵外野手は1軍でもチャンスをつかみ、充実の日々を過ごしていた。だが、それは長続きしなかった。そのシーズン限りで星野仙一監督が退任したからだ。「まだ続くと思っていたのでショックでした」。監督が高木守道氏に代わって流れも変わった。そこからは下り坂で、中日と阪神の2球団で戦力外を経験することになった。
星野中日時代、南牟礼氏は本拠地・ナゴヤ球場では12時前にはグラウンドにいた。「1軍は午後2時半に入るんですけど、早く行ってマシンにボールを入れてバント練習をしていたんです」。ある日、島野育夫コーチから「バントせんでいいから、打て」と言われた。「いいんですかって言ったら、ええから打てって」。マシンだけでなく、新しいボールで打撃投手の生きた球も打たせてくれた。そこから打撃の調子も上がっていった。
その後、巨人戦での守備で肉離れのアクシデントには見舞われたが、長期離脱にはならずに1軍復帰。前年までで通算4本だったホームランは、中日に移籍したシーズンだけで6発放った。「自分が出た試合に限れば6試合連続のホームランでした」。スタンドも大熱狂。「トヨゾー」コールはそんな中で起きた。まさに最高のシーズンだった。だが、星野監督の退任とともに歯車は再び狂った。
高木体制になって使われなくなった。期待度が違ったという。「練習では若手の清水(雅治)、種田(仁)、山口(幸司)、前原(博之)がいつも特打でした。早く行っても打たせてもらえなくなった」。悔しい出来事もあった。「1軍に昇格し遠征先の東京に行って、よろしくお願いしますってあいさつしたら、首脳陣から『ファームは優勝がかかっているんだってな。またファームに行ってくれ』って」。何のために行ったんだろう。なんだか不遇のオリックス時代に逆戻りしていくような気分だった。
そして高木監督2年目の1993年オフに戦力外通告を受けた。旧知のヤクルト関係者からは「野村(克也)監督はお前みたいのが好きだから、あるぞ」と言われたが、進展はしなかった。どうしようか。
そんな時に阪神・中村勝広監督から「守れる外野手がいないから(高知)安芸(キャンプ)まで(入団)テストに来てくれないか」と誘われた。でも、テストだったらまだ分からない。「僕はヤクルトに決まりかけているんですけど」と嘘を言った。すると「元気な姿を見せてくれれば契約するから」。阪神に移籍することになった。
阪神も2年で戦力外…ダイエー入団決定的だった時に起きたハプニング
1994年、阪神1年目は守備要員や代打でも1軍で活躍できた。しかし、これも続かない。2年目の1995年は1軍出場がなく、2度目の戦力外通告を受けた。このときはコンディンションも最悪だった。「膝が外れていた。亜脱臼していた。関節がずれていたんです」。今度はどこからも誘いがなく、12月になった。「もう無理だな」と諦めかけた。
だが、まだ終わらなかった。ダイエーの水谷実雄打撃コーチから「野球やる気あるんやろ、2月にテストを受けに来い! 体を作っておけ!」と言われた。ここでまた奇跡も起きた。この状態では無理だと思っていた膝が良くなった。「九州にいる女房のお姉さんに、福岡でも暴れますわって言って冗談でパッと飛んだときに、パキッと外れていた膝が戻ったんです」。
これならいける。1月にトレーニングして、ちょっとくらいは走れるようになって、2月にダイエーのテストを受けた。「いきなり3、4キロのランニングがあったけど、大丈夫だった」。練習終了後に高知市内のホテルで入団会見することになった。しかし……。
練習終盤、シートノックを受けた時に「膝がまたパコンと外れた」。背番号0、年俸1000万円で契約すると伝えられてもいたのに、これですべてがなくなった。もう現役引退を決意するしかなかった。そこから始まった。さらなる苦難の日々が……。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)