坂口智隆氏は1年春かられベンチ入り、夏には3番打者で県大会出場 オリックス、近鉄、ヤクルトで20年間プレーし、今季限りで…
坂口智隆氏は1年春かられベンチ入り、夏には3番打者で県大会出場
オリックス、近鉄、ヤクルトで20年間プレーし、今季限りで現役を引退した坂口智隆氏。中学生ながら高校進学を決めた理由はプロ野球への強い思い、母への感謝だった。バファローズ魂を胸に抱き、“最後の近鉄戦士”と呼ばれた男の野球人生を振り返っていく連載の第3回は「神戸国際大付高を初めて甲子園に導いた1年生エース」。
高校進学を控え数多くの強豪校から誘いがある中、熱心にグラウンドに姿を見せていた青木尚龍監督に心を奪われ神戸国際大付高への進学を決めた。「1年から中心になれる高校。その方がプロにもアピールもできる」。母子家庭のため母・一枝さんにも負担をかけられない思いも理由の一つだった。
神戸国際大付には昔ながらの上下関係はなく、投打で全国クラスの実力を誇っていた“スーパー中学生”は入学早々に背番号「18」を与えられ1年春からベンチ入り。春の県大会では外野手としてプレーし代打でヒットも放った。
「高校野球は先輩が厳しいイメージでしたが、優しい人が多かった。140キロを超えるボールを投げる3年生のエースがいて、常に一緒に練習をさせてもらった。僕がプロに行きたいと言っていたので青木監督も何か意図があったと思います」
当時のエースはプロ注目の投手だった上里田光正氏(駒大-高知ファイティングドックス)。投手も兼任していた坂口氏は常にトレーニングを共にし、背番号「1」の姿を追い続けた。初の甲子園をかけた1年夏は背番号「18」ながら3番打者として出場。チームは順調に勝ち上がっていったが、準決勝で育英に敗れた。
1年秋からは背番号「1」を背負い、春夏通じ同校初の甲子園に導く
「試合に負けて泣いたのはその時だけ。元々、甲子園への思いはそこまでなかったけど先輩たちの顔を見ると悔しさと不甲斐なさでいっぱいになって『スイマセンでした』と。自分がもっと打たないといけない、中心にならないといけない。中学生の延長でやっていた野球がそこで変わった」
敗戦を経て本物の“高校球児”になった坂口氏は新チームが始まると、その才能を一気に開花させる。1年秋から背番号「1」を背負い「5番・投手」としてチームを牽引。秋季兵庫大会を優勝すると、そのままの勢いで秋季近畿大会でベスト4入りを果たし、翌年の選抜大会出場を決めた。
2001年の選抜では初戦で市川(山梨)と対戦。6回まで3安打に封じ2-0とリードしていたが、7回に1点差に迫られると8回は自らの失策もあり一挙4失点。この回途中で降板するとチームも反撃できず2-5で敗れ、同校の初の甲子園は初戦敗退となった。
中盤まではほぼ完璧な投球を見せていたが、終盤は体の異変を感じていた。何度も足がつりかけ最終的にはマウンドに寝そべりながらストレッチを行うと、ベンチの青木監督や部長らは目を丸くし言葉を失った。何気なく行った行為だったが「試合後に監督やコーチに『甲子園であんなことするやつ初めてみた』と言われて(笑)。自分の世界に入っていた」と振り返る。
野間口、高井の投げ合いを目の当たりにし実力の違いを痛感
聖地で最速142キロを計測し、第1打席でセーフティバントを決めるなど投打で主戦級の活躍を見せたが、自身は物足りなさを感じていた。同日の試合前には野間口貴彦(元巨人)を擁する関西創価(大阪)と、後にチームメートになる2年生左腕・高井雄平(元ヤクルト)を擁する東北(宮城)が対戦。大会屈指の好カードを目の当たりにし実力の違いを痛感していた。
「野間口さんと雄平(高井)の直球、変化球を見て衝撃を受けた。凄い選手はいっぱいいる。甲子園で負けたことは悔しかったし責任も感じたけど、一番に思ったのは全国で結果を残さないと意味がない。どの大会で打てばプロに行けるのか? やっぱ。ここで打たなアカン。甲子園を目指す思いは徐々に強くなっていきました」
チームの大黒柱となった坂口氏。ここから快進撃を見せるかと思えたが、伝統校が数多くひしめき合う兵庫はそう甘くはなかった。(続く)(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)