現在、東海学園大学(愛知)の教授である金尾洋治(かなお ようじ)氏は、1983年から2013年まで、名古屋大学の陸上競技部で中長距離選手を指導した。他大学に勤務しながら名古屋大学のコーチ・監督を務めた金尾氏は、陸上界では無名だった同校を、就…

現在、東海学園大学(愛知)の教授である金尾洋治(かなお ようじ)氏は、1983年から2013年まで、名古屋大学の陸上競技部で中長距離選手を指導した。他大学に勤務しながら名古屋大学のコーチ・監督を務めた金尾氏は、陸上界では無名だった同校を、就任から5年後に全日本大学駅伝へ導いている。

中学生時代に「天才少女」と呼ばれるも怪我により高校で伸び悩んでいた、東京五輪女子マラソン代表・鈴木亜由子選手(日本郵政グループ)が世界レベルの選手に成長したのは、名古屋大学生時代。「最強の市民ランナー」と称される中村高洋選手(京セラ鹿児島)が大きく力を伸ばしたのも、名古屋大学在学中だ。

金尾氏は、どのような指導をしていたのか。その背景にはどのような経験があるのか。名古屋大学を離れて約10年が経過する今、自身の陸上人生を振り返っていただいた。

(写真提供:名古屋大学陸上競技部 OB・OG会)

「練習に来るのが楽しくなるように」大切にしていた考え方

自身の過去について話す金尾氏

金尾氏が指導において最も重要視していたのは、選手本人が陸上競技を楽しんでいられること。練習と学業を両立させるためにも、選手の根っこにある前向きな気持ちを引き出すよう努めた。

「長距離走は、ただでさえ身体的につらいのですが、練習内容も基本的に淡々としています。だからこそ、楽しくないと続かない。練習に嫌々来るのではなく、『グラウンドに来るのは楽しい』と思ってもらえることを大切にしていました」

練習に来るのが楽しみになるよう、金尾氏が実践していたのが、その時々の選手の実力に合わせてグループ分けをする練習法だ。また、選手が圧力を感じるような言動は控え、一人ひとりの状態に合わせて指導をするよう心がけた。

「タイム順にS〜Dの5グループに分けて、たとえば『Sグループは1キロ2分55秒を維持しよう』など、各グループのレベルに合わせて目標タイムを設定します。そうやって、個々が達成感を得られるようにメニューを立てていました。タイム以外にグループ分けの基準は設けず、男女一緒になって練習します」

「私生活は一切管理しません。ただ、『練習の時間だけは委ねてほしい』と、部活中は僕の立てたメニューに取り組んでもらっていました。それから、選手の発言には耳を傾ける。『自分の指導法はこれ』ではなく、今いる選手一人ひとりに合わせてアドバイスをするのが、僕の基本なんです」

練習日数を週3日、もしくは4日にしていたことも特徴のひとつである。あえて練習を一日置きにして、選手が心身を整えやすいようにしていた。当時、金尾氏は愛知県立看護大学(現在の愛知県立大学)に勤めながら名古屋大陸上競技部のコーチをしており、グラウンドまでは片道約1時間。選手の顔を見られる日が少ないからこそ、自身の仕事が忙しくてもできる限りグラウンドに足を運び、表情を直接見ながら声をかけた。

大学の部活動では、中学や高校よりも主体性が求められ、モチベーションの低下をはじめとしたさまざまな理由から、入部1、2年以内に辞める学生が少なくない。しかし、金尾氏が名古屋大学でコーチを務めていた31年間、大半の選手が最終学年まで競技を続けたという。金尾氏が引き出した「走る喜び」は、選手の心に根を下ろしていたのだろう。

教え子には全国に名をはせるランナーも

金尾氏の下で育ったランナーの中には、鈴木亜由子選手や中村高洋選手といった、日本トップクラスの選手もいる。

鈴木選手は、中学2年生のときに全日本中学選手権の800mと1500mで二冠を達成し、「天才少女」と称されたが、足の甲を2度手術したこともあり、高校で伸び悩んだ。しかし、高校3年生のときに全国高校総体の3000mで8位入賞し、復活の兆しを見せていた彼女は、名古屋大学進学後、さらに力を伸ばしている。

「本当は、別の選手を勧誘するために東海地区の高校総体へ行ったのですが、その場で亜由子のことを紹介されたんです。有名な選手だったので、もちろん名前は知っていました。目の前で軽やかに走る亜由子を見て、『怪我さえさせなければ絶対に復活できる』と確信しました」

大学1年の夏、鈴木選手は世界ジュニア選手権に日本代表として出場し、5位に入賞。金尾氏の言葉どおり、「復活」と呼べる活躍を早々に見せ、再び全国から注目される選手となった。大学4年生のときに出場したユニバーシアードでは、10000mで金メダルを獲得している。

鈴木亜由子選手のユニバーシアード金メダル獲得に伴う銘板作成時の記念撮影 左から、國枝秀世部長(当時)、金尾氏、鈴木選手、松本正之OB・OG会長(当時)

「スーパー市民ランナー」の呼び声も高い京セラ鹿児島の中村高洋選手は、高校時代に800mや1500mで北信越大会に進出しているものの、当時の5000mの自己ベストは17分台だった。

しかし、名古屋大学入学後は、大学院2年生時点で14分08秒と確かな成長を見せている。日本学生ハーフマラソンでは4位に入賞し、全国レベルの選手へと変貌を遂げた。2022年4月に開催された「高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソン」では、国内外のトップランナーが集結する中で、日本勢トップとなる10位入賞を果たしたのが記憶に新しい。

「入部したころの高洋は、モチベーションがあまり高そうではなかったことを覚えています。ただ、その年の後半から実力を伸ばしてきて、大学院生のときには、東海インカレの5000mで優勝するレベルになっていました。陸上を好きになれたから、力を付けていったのだと思います」

数年前の出来事なのに、金尾氏はつい最近のことのように軽快な口調で語った。鈴木選手や中村選手には、大会の前に今でも励ましの連絡を送ることがあるそうだ。

陸上競技を始めたのは「自分だけが勧誘されなかった」から

選手一人ひとりの「走る喜び」を引き出すのに長けている金尾氏が、今の考えにいきつくまで、どのような経験をしてきたのか。そこには、「礎(いしずえ)」となった何かがあるはずだ。長い長い陸上競技人生の始まりは、ある悔しい経験をした、中学3年生のときまでさかのぼる。

金尾氏は、中学生までは陸上競技に集中して取り組んでいたわけではなかった。通っていた広島県の中学校に陸上競技部はなく、大会のときだけ一時的にチームが組まれる。転機となったのは、高校進学のとき。中学の長距離チームにいた自分以外の全選手に、長距離界きっての強豪・世羅高校から勧誘があった。

「走るのが速いほうではあったのですが、好きではなくて、高校では野球をやろうと思っていたんですよ。ただ、僕と一緒に長距離走をしていた同級生3人が、みんな地元の世羅高校から勧誘されたんです。それが悔しくて、本格的に陸上を始めようと世羅高校に入りました。当時は周りから『お前が世羅で通用するわけがない』と言われたものですよ」

熱い思いを抱いて名門校の陸上競技部に入った金尾氏だが、当時の実力はチーム内でもっとも下だった。しばらくは、約30名いた部員の中で30番目を走り続け、「金尾はいつ辞めるんだ?」と周囲から言われたこともあるそうだ。しかし、そんな言葉をはねのけるように、並々ならぬ努力を重ねて実力を伸ばした。

「少しでも周りに追いつくために、学校までの約7キロを毎日走って登下校しました。朝は6時に起きて、夜は実家の農業を手伝っていたので、疲れをとるために1日8時間は寝るようにしていましたね。勉強に充てられる時間は学校にいるときだけで、一番前に座って必死に授業を受けていました」

2年生を迎えるころには実力をつけていた金尾氏。世羅高校が全国高校駅伝に出場する際のメンバーにも選ばれて、都大路を走った。世羅高校は高校新記録で優勝したが、念願だった駅伝で自身だけが区間賞を取れなかった。悔しくて、それは今でも脳裏に刻まれているそうだ。

高校卒業後は、地元の広島大学に進学した。陸上競技部に監督やコーチはいなかったが、自分の練習スタイルを持つ金尾氏はここでも記録を伸ばし、キャプテンとしてチームを束ねる立場にもなった。西日本インカレの800m優勝をはじめ、輝かしい結果を残している。

高校1年生のときに、一番後ろでチームメイトの背中を見ていた少年は、一途に努力を続け、全国レベルの選手になった。つらい経験も糧にして、前を向き続けた。そんな歳月から得た「やってみようとすれば、何とかなる」という思いは、自らの人生の指針になっているという。

金尾氏が大学の指導者となったワケ

東京オリンピックに出場する鈴木亜由子選手を応援する金尾氏(2020年撮影)

陸上競技に没頭する中で、いつしか金尾氏は、大学で指導にあたりたいと思うようになっていた。世羅高校出身のランナーが大学で伸び悩み、陸上競技から離れていく光景を目にしていたからだ。しのぎを削った仲間たちが、次々と第一線から退いていく。それが悔しかった。

「長距離選手の多くは27~30歳でピークを迎えるので、本来は大学で力を伸ばせるはずです。おそらく、当時の大学の指導環境は、悪循環に陥っていたんですよ」

「高校では指導者が生徒に合わせてくれて、結果を残せば大学に引っ張られる。でも大学ではみんな1からのスタートで、周囲が記録を伸ばす中、自分は思うように記録が伸ばせない。その環境に、選手は『高校のほうが良かった』と悩み、指導者も『高校時代の環境が良かったのだろう』と思う。このような悪循環に陥っては、指導者と良い関係を築けず、伸び悩んでも仕方ありません」

大学卒業後、金尾氏は筑波大学の大学院を経て、名古屋大学の研究生になる。そのときの縁で、同校の陸上競技部でコーチを務めることになった。就任当時の名古屋大学は、とてもではないが、全日本大学駅伝など目指せる状況ではなかったそうだ。練習を途中でやめる者、そもそも練習に来ない者。「全日本大学駅伝出場って何を言っているの?」という空気だったという。

だが、どんな状況でも、金尾氏のやることは変わらない。前向きな姿勢でひたすら指導を続け、就任から5年後の1988年、チームを全日本大学駅伝へ導いた。金尾氏が、長い陸上競技人生で最も嬉しかった出来事として挙げるのが、この瞬間だ。コーチとして在籍していた31年間で、名古屋大学陸上競技部の男子は計7回、女子は計2回、全国への切符を手にしている。

指導者にならなければ、胸躍る人生ではなかった

自身の退任セレモニーにて名古屋大学陸上部にエールを送る金尾氏

金尾氏が名古屋大学陸上競技部を離れたのは、2013年。東海学園大学に新設されたスポーツ健康科学部の教授として誘いの声がかかり、当時勤めていた愛知県立大学を辞めることになった。そして、名古屋大学のコーチも退くことにした。

「僕の退任に泣いてくれる学生も何人かいました。何事も、いつか終わりはやって来る。だから仕方ないとは思いながらも、やはり悲しかったですね」

現在勤務する東海学園大学でも、金尾氏は陸上競技部を指導している。「いつかは名古屋大に勝とうぜ」と選手に声をかけながら、成長過程にあるチームを前進させようとしている。

「自分が競技をしているときは、陸上競技が好きになれなかった」。金尾氏がインタビュー中に発した言葉である。最後に、“指導者として”陸上競技を楽しんでいたのか、楽しんでいるのかについて聞いた。

「選手が良いパフォーマンスを見せたときや、結果を残したときは、やっぱり嬉しいんですよ。僕は、そんなふうに学生が喜ぶ姿を見るために、競技場に行っていた。もし陸上競技の指導がなく、研究者としてだけ大学に関わっていたら、こんなに胸躍る人生ではなかったでしょうね。良い陸上競技人生ですよ」

目を細めながら、優しく微笑んだ。

金尾氏が学生の走る喜びを引き出せる背景には、ひたむき過ぎるほど陸上競技に取り組んできた、自身の過去がある。競技者であるときは足元に重ねていた、一つひとつの嬉しいこと、つらいことが、指導者としての歩みを始めたとき、選手を育むための財となった。

過去も今も、そしてこれからも、金尾氏は選手の背中を温かい手で押し続ける。

取材/文:フリーライター紺野天地