正田樹(四国アイランドリーグplus・愛媛マンダリンパイレーツ、以下愛媛)は、40歳を超えても投げ続けている。夏の甲子園優勝左腕はプロデビューから20年が経過。紆余曲折、多くの経験を重ねて今季からコーチ兼任となった。引退という現実問題が頭を…

正田樹(四国アイランドリーグplus・愛媛マンダリンパイレーツ、以下愛媛)は、40歳を超えても投げ続けている。

夏の甲子園優勝左腕はプロデビューから20年が経過。紆余曲折、多くの経験を重ねて今季からコーチ兼任となった。引退という現実問題が頭をよぎりつつも、現役投手としてマウンドに上がる。

 

「どういう着地点がベストなのかは常に考えています。とことんやりたい気持ちも強い。現役引退も考えますが、実際はその時になってみないとわからない」

 

1999年夏、桐生第一高(群馬)のエースとして甲子園優勝、時の人となった。同年ドラフト1位で日本ハム入団、3年目の2002年には23試合登板、9勝11敗、防御率3.45で新人王を獲得。その後、2006年オフに阪神へ移籍するも2008年限りで戦力外となった。

 

「恥ずかしい話ですが、野球への姿勢が比べ物にならないほど変わりました。以前の自分はクビになるのも当然だった。阪神を戦力外になっても『まだできるだろう』という気持ちがあった。その時点で甘かった。でもどこからも話がなく、現実に気付かされました」

 

「結果的に阪神を戦力外になったことがプラスに作用したと思います。多くの選手が『ああしておけば、こうしておけば』と言う。でもその時には遅過ぎて、引退する場合がほとんどです。僕はその時に気付けて、今に続いていると思います」

甲子園優勝、パ・リーグ新人王など、多くの栄光を経験したサウスポー。

~台湾、中南米、米国、新潟、ヤクルト、そして高津臣吾

阪神を戦力外となり12球団合同トライアウト(以下トライアウト)を受験。しかしNPB球団との契約はならず、自らの評価、立場を思い知らされた。入団テストを経て台湾プロ野球(CPBL)・興農ブルズ(現・富邦ガーディアンズ)入団が決定。この時期から野球への向き合い方が大きく変わった。同球団には高津臣吾(現ヤクルト監督)も在籍、多くのことを学ぶことができた。

 

「台湾から話をいただき野球が終わらなかった。『このままではダメだ』と必死になりました。勢いに任せていたのも1球ずつ考えて投げるようになった。台湾時代は成長できて充実していました」

 

「高津さんは本当に良くしてくれたし、勉強になることばかり。普段は気さくなのに野球に対しては信じられないほどストイック。全てのプレーが丁寧で、1球ごとにしっかり考えて意味を持たせる。野球選手としての技術が桁違いに高かったです」

 

台湾で2年間を過ごし、2009年オフにはドミニカ共和国でのウインターリーグで投げる。2011年はマイナー契約でレッドソックス春季キャンプに参加したがメジャー契約には至らなかった。帰国後はルートインBCリーグ・新潟アルビレックスBCへ加入、翌2012年にはヤクルトへ入団してNPB復帰を果たす。

 

「新潟で再び高津さんとチームメイトとなって、台湾時代以上に参考にさせてもらいました。ヤクルトのオファーは驚いたし本当に嬉しかった。在籍2年間は大切な場面で使ってもらえて、素晴らしい経験になりました」

 

ヤクルト1年目から中継ぎとして24試合に登板。翌2013年5月17日のロッテ戦(神宮)では、9回表を抑えた後に味方がサヨナラ勝利を収めたことで、NPBでは8年ぶりの勝利投手にもなった。

現実を知ることができて野球への姿勢が大きく変化した。

~NPB復帰が現実的でないことを知る

2013年限りでヤクルトから戦力外通告を受け、再びトライアウトを受ける。しかしNPBからのオファーはなく、2014年は再び台湾CPBLのLamigoモンキーズへ。しかし成績不振から5月に契約解除され、四国アイランドリーグplus・愛媛へ入団する。

 

「愛媛入団後はNPB復帰を考えていました。今、一緒にやっている選手たちと同じような感じです。チームのリーグ優勝、チャンピオンシップ制覇はもちろん大事。でもそれ以上に『最高峰の舞台(=NPB)に戻りたい』という気持ちが強かった」

 

愛媛加入直後からレベルの違いを感じさせた。同年後期リーグでは通算7勝2敗、防御率1.02で最優秀防御率とリーグ後期MVPのタイトル獲得。2015年もリーグ年間MVPに選出されるなど、大きな可能性を感じさせた。しかし同年オフの受験を最後にトライアウトを受けることもなくなり、NPBはさらに遠いものとなった。

 

「NPB復帰が現実的でないことを感じ始めました。NPBへ行くような選手はトライアウト前の段階で必要とされるはずです。自分はそこまでの選手にはなれなかった。復帰したい気持ちはありましたが、冷静に判断している自分もいました」

 

「同じ四国リーグでも愛媛でやっていると、NPBとの距離を感じるようになります。長年、愛媛からはNPB選手が出ていなかったからです(今年のドラフトでは上甲凌大がDeNA育成1位指名)。例えば徳島などからは多くのNPB選手が出ていた。同じリーグ内でもチーム間の差を感じるようになりました」

~「次が最後かも」と思いつつ調整を重ねる

愛媛加入から8年の月日が流れた。在籍期間もチーム最長で球団レジェンドとも言える。今季からは「投手コーチ兼任」の肩書きも加わったが、状況に応じて先発としてマウンドに上がるのは変わらない。

 

「肩書きは付きましたが、今までと同じようにやっています。チームには平井諒投手コーチがいたので、僕はイチ投手としての比重が大きかった。投げるかどうかの判断や決定は、弓岡敬二郎監督と平井コーチに任せていました」

 

「基本は若い投手を先発させますが、何かあった時に行ける準備はしていました。先発登板まで4日間あれば大丈夫。仮に間隔が2週間空いても逆算して合わせます。時間に余裕がある時は、走り込みや投げる量を増やして自分を追い込む時間にします」

 

「1人の投手として登板時にベストを尽くすのはいつも変わらない。『これが最後の登板かもしれない』という気持ちを常に持っています。悔いを残さないようにすることが大事だと思います。いつ戦力外通告されるかわかりませんから」

「最後の登板かもしれない」という危機感を持って日々を過ごす。

~調子に乗って失敗した経験を伝えたい

イチ投手としての調整方法、マウンド上での立ち振る舞いは熟知している。しかし投手コーチとしては1年目。今までの経験にプラスして、技術、身体、メンタルなど覚えることは山積みだという。

 

「指導ではなくアドバイスするような立場です。練習中は『お互いに球を投げて受ける』やり取りができます。同じグラウンド上でプレーするので、調子、気持ちもわかりやすい。気になったこと、感じたことを話す感じ。押し付けではなく、受け入れやすく話してあげる方法を考えます」

 

「実力的にプロでやれそうな選手もたくさんいます。でも少し良くてもそこで止まってしまうことが多い。注目されていることで満足してしまう部分もある。また貪欲で真面目でも実力が足りなかったりもある。両方を備えた選手になるのは難しいです」

 

「振り返ると自分自身もそうでした。お山の大将、自分が一番うまいと思っていた。調子に乗っていたのでNPBを9年でクビになった。満足してしまうと成長が止まる。実際に経験してきた部分なので、選手には話してあげたいです」

「日本ハム時代と今は違う」と語る表情からは余裕すら感じる。

~野球人生の締めくくりは自分で決める

現役生活が長くないことは認識している。コーチとして期待されることもわかっている。しかし投手のプライドは最後まで持ち続ける。現役としてマウンドに立つかどうかは、最後まで自分自身で決めるつもりだ。

 

「プレーする場所がなければ現役を続けられないので、投げられる状態を保つことは当然です。それでも『必要ない』と言われれば、その後のことは自分自身で決めます。今は投げたい思いが強い。でも、いつか必ず区切りはあるはずです。勝った負けたという数字の部分は運もあります。だから『これで良いかな』と思えることが判断基準かもしれません」

 

「NPBを戦力外になったことで、考え方や取り組み方が変わりました。だから独立とはいえプロの世界で長くプレーできている。全ては自分次第です。自分の野球人生をどう締めくくるかが、ここからの課題です」

「これで良いかな」と、自分自身が思えるようになるのが理想。

自らの野球人生を語りながらもチームのことを重要視しているようだった。かつて「お山の大将」で投げていたサウスポーは、年齢と経験を積み献身性を備えたベテランになった。

 

「日本ハムの頃と今では変わってなきゃダメですよね(笑)」

 

満面の笑みを浮かべて出ていった先には若手選手がいた。かつての自分にとっての高津のような存在になっているのだろう。いつの日か現役引退の日が来るだろうが、それまでにできることは多く残されているようだ。愛媛にとって正田樹は必要な男であることを再認識できた。

 

(取材/文/写真・山岡則夫、取材協力/写真・愛媛マンダリンパイレーツ)