10月21日、J3テゲバジャーロ宮崎は、元日本代表FW工藤壮人(32歳)が同日午後2時50分に亡くなったことを発表して…

 10月21日、J3テゲバジャーロ宮崎は、元日本代表FW工藤壮人(32歳)が同日午後2時50分に亡くなったことを発表している。同月2日に体調不良を訴え、11日に脳に髄液がたまる水頭症の手術を受けた後に容体が悪化。17日からは集中治療室(ICU)で治療を受けていた。

 工藤はJリーグを代表するストライカーのひとりだ。

 2009年、柏レイソルの育成組織から19歳でトップデビューを飾った。2011年にはJリーグ優勝に貢献し、クラブW杯でも得点を記録。2012年にはリーグ戦で13得点、天皇杯制覇をもたらしている。2013年は19得点を記録、ACL(アジアチャンピオンズリーグ)でも6得点を挙げ、「AFCドリームチーム」に選出された。また、ナビスコカップでは決勝で得点を挙げ、MVPに選ばれている。



10月21日、32歳の若さで亡くなった元日本代表の工藤壮人さん(写真は柏レイソル時代)

 同年1月、工藤は結婚式を挙げた。とても和やかで慈愛に満ちた式だった。工藤と花嫁の父の握手は、とりわけ強い印象を残した。端から見ても熱が伝わってくるほどで、工藤は妻となる女性の父の情感を全身で受け止めているようだった。

「ゴールを獲り続けることで、ここまで登り詰めることができました。だから、これからもどんな形であれ、ゴールを意識してプレーしていかないと。人生を懸けている、そんな迫力をみせたいですね」

 工藤はそう決意を語っていた。

 彼はピッチに立った時、情熱と冷静を使い分け、ゴールに迫ることができた。周りを生かし、生かされるのがうまかったが、かといって、ストライカー特有のぎらつきも失わない。結果的に、とても爽快で理知的なプレーに映った。

 その人柄も情熱的だが、礼儀を失わず、正義感が強く、もっと優しい表現にするなら、気遣いの人だったと言える。

「コミヤさんはマスコミ関係よりも、選手とのほうが話しやすいと思うんで」

 結婚式に呼んでくれた時、彼は座席表にまで気を遣った。隣が大谷秀和、前が安英学という人格者で、サッカーの話が好きなふたりで囲んでくれていた。今になって思う。数多い列席者のなか、ひとりひとりの組み合わせに配慮できるのは驚きである。

MLSで負った大ケガからの復活

 そう言えば、工藤とは柏、東京、広島、山口といろんな町で会い、サッカー談義を重ねたが、彼はもてなしの心が強く、いつもとっておきの場所を選んでいた。そこで出される料理はどれもおいしく、「うまいね」と言うと、顔をくしゃくしゃにして笑った。

 2013年、工藤は当時、アルベルト・ザッケローニが率いた日本代表にも選出されている。東アジア選手権では華々しい活躍だった。4試合2得点を記録し、ブラジルW杯に向けた同年4月の代表合宿にも招集されていた。本大会出場は叶わなかったが、2015年には北嶋秀明の記録を抜いて、クラブ歴代最多得点記録を更新、金字塔を打ち立てている。

 そして2016年からはMLS(メジャーリーグサッカー)のバンクーバー・ホワイトキャップスに移籍した。そこで受けた試練は尋常ではなかった。同年5月、シカゴ・ファイヤー戦で相手GKと激しく交錯、あごを骨折したのだ。

 緊急入院した工藤は、その日のうちに折れたあごを正常な位置に戻す処置を施され、翌日にはプレートを入れる出術を受けた。上下のあごをワイヤーで固定。骨がつくまでは、噛む動きができなくなった。日々の食事は妻がミキサーにかけた流動食で、ワイヤーを取るまでの1カ月は不自由な生活が続いた。退化したあごは弱って開かず、力を入れても指一本分も口に入らなかった。

 しかし、工藤は精力的に復帰に向けて取り組んだ。全治4カ月と言われたアクシデントと苦闘し、2カ月で復帰した。そして2試合目で得点を記録。それもヘディングで飛び込み、合わせたボールだった。「どうしても自分の力を見せたかった」と、一切の怯懦(きょうだ)なしにゴールへ飛び込んだ。

 彼が小3の時のエピソードとどこかつながった。

 工藤は柏の育成組織入団テストを受けたが、その1年前、三つ年上の兄がテストで落とされる姿を目の当たりにしていた。その光景が忘れられないほど悔しかった。以来、「自分が入ってみせる!」と"敵討ち"を誓ったのだという。学校が終わるとすぐに帰宅し、帰ってきた父親と特訓を積んでいる。ひとりでもかすかな街灯で目を凝らし、木々を敵に見立てたドリブルを繰り返した。

 結果、彼は合格を勝ち取った。試練に打ち克つ。そうやって、彼はサッカー人生を貫いてきた。

 工藤は自分に厳しく、強かったからこそ、他人に優しかったのだろう。その後、帰国してJ1のサンフレッチェ広島、J2のレノファ山口に在籍したが、若い選手とも自然に付き合い、刺激を与えた。サブの立場になっても、一切腐ることはなかった。敵も含めて、ピッチに立つ者すべてを等しくリスペクトし、愛していたのだ。

 先日もLINEのやりとりで、筆者が浦和レッズの酒井宏樹(柏時代に工藤と同期のチームメイト)と試合後に初めて言葉を交わしたことを伝えると、彼は「どんなに活躍しても、いつも変わらず、低姿勢のすばらしい僕の同級生です。ぜひ、取材してやってください」と絵文字も使ったメッセージが返ってきた。自分のこと以上に、仲間を大事にする男だった。

 今も事実が信じられないし、受け止められない。彼自身も無念だろう。せめて彼に感謝を込め、原稿を書くことで悼みたい。

「いつでも宮崎でお待ちしております! なんとかそれまでにゴールを積み重ねておきます!!!」

 宮崎でも取材をする約束をかわしていた。それが彼からの最後のメッセージだ。