スペイン代表・強さの秘密(2)連載(1)「スペイン代表は欧州の強豪ではなかった。弱いうえにつまらなかった暗黒時代」はこち…

スペイン代表・強さの秘密(2)
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 自国で開催された1982年のW杯の2年後、スペインはフランスで開催された1984年の欧州選手権で、決勝進出を果たした。しかし、フランスのミシェル・プラティニが放ったFK弾をスペインのGKルイス・アルコナーダが後逸。優勝を開催国にもっていかれた。

 続く1986年メキシコW杯では、ケレタロで行なわれた決勝トーナメント1回戦、対デンマーク戦がハイライトのゲームとなった。

 相手のデンマークはW杯初出場ながら、2年前の欧州選手権で頭角を現し、スペインと準決勝で延長PKを戦った末、敗れていた。メキシコW杯ではグループリーグで3連勝。ウルグアイに6-1、西ドイツにも2-0で完勝していた。ミカエル・ラウドルップ、プレベン・エルケーア・ラルセンなど、欧州を席巻するアタッカーを軸に攻撃的サッカーを展開。ブレイクを果たそうとしていた。スペインに2年前の借りを返すのではないかと予想された。

 ところが結果は5-1。スペインの大勝に終わった。撃ち合いの好勝負をスペインが制したという格好だった。スペインを牽引したのは4ゴールの活躍を演じたFWエミリオ・ブトラゲーニョ。「エル・ブイトレ(ハゲワシ)」の愛称で親しまれたレアル・マドリードのストライカーである。彼がプレーした1980年代後半のレアル・マドリードは、「キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシの世代、つまりブトラゲーニョの世代)」と呼ばれた。しかし、名将レオ・ベーンハッカー率いる当時のチームは、国内リーグでは敵なしだったが、欧州では勝てなかった。

 チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)でレアル・マドリードが最後に優勝したのは1965-66シーズンで、その15シーズン後の1980-81シーズンに決勝進出を果たしたものの、リバプールに1-0で敗れていた。ちなみにライバルのバルセロナも1985-86シーズンにクラブ史上、初めてチャンピオンズカップ決勝進出を果たしたが、ステアウア・ブカレストの軍門に降っていた。

 1986年メキシコW杯に話を戻すと、スペインは続く準々決勝でベルギーに敗れてしまう。

ベスト4の壁を破れない

 1988年の欧州選手権(西ドイツ大会)でも、8チームが出場する本大会に駒を進めたが、グループリーグで西ドイツ、イタリアの後塵を拝し、ベスト4入りを逃している。

 フランクフルトで対戦したイタリアとの一戦は0-1のスコアどおり、競った内容の惜しい敗戦だったが、ゲルゼンキルヘンで対戦した西ドイツ戦(2-0)では、強靱な身体能力とゲルマン魂を誇る相手に、なすすべもなく敗れた。文字どおりの完敗劇だった。

 その20年後、ウィーンのエルンスト・ハッペルで行なわれたユーロ2008決勝で、スペインはドイツに完勝している。1-0という最少スコア差ながら、順当な勝利だった。そのさらに2年後の2010年南アフリカW杯、ダーバンで行なわれた準決勝でも同様に、スペインはドイツに、1-0ながら正統性の高い勝利を飾っている。1988年欧州選手権当時は、とても想像できなかったことである。

 当時のスペインは、西ドイツに何度戦っても勝てそうもないと思わせる、なんとも言えない貧弱さを露呈させていた。あるレベルは維持していたが、欧州のトップレベルに君臨しているわけではなかった。

 スペイン国内では論争が巻き起こった。守備的に戦ったほうがいいのではないか。攻撃的に行っても、欧州では勝てないのではないか。サッカーの方向性について、白熱した論争が展開された。そうしたなかで支持されたのは、1988-89シーズンにバルサの監督に就任したヨハン・クライフの「勝てなくてもいいから攻撃的に」だった。
 
 1990年イタリアW杯はグループリーグを首位で抜け、決勝トーナメント1回戦でイビチャ・オシム監督率いるユーゴスラビアに延長で敗れている。1992年の欧州選手権は本大会に進めず。1994年のアメリカW杯は準々決勝でイタリアに1-2と惜敗。1996年欧州選手権もイングランドに準々決勝でPK負けを喫する。国際大会でベスト4の壁を破れずにいた。



決して強豪国とは言えない時代もスペイン代表を支えたラウル・ゴンサレス

 1998年フランスW杯では、開幕する20日前、アムステルダムで行なわれたチャンピオンズリーグ(CL)決勝で、レアル・マドリードがユベントスを破り、32シーズンぶりの優勝を飾る。するとその影響でスペインの前評判も高まりを見せた。

クラブレベルではスペイン勢がCLを席巻

 ところが、初戦でスペインは躓く。ナイジェリアに2-3で打ち負けてしまったのだ。続くパラグアイには0-0で引き分け。3戦目のブルガリア戦にようやく本領を発揮し、6-1で勝利したが、ナイジェリア、パラグアイにグループリーグ突破を許すことになった。

 それでもスペインには順風が吹き続けた。1999-00シーズンのCL決勝は、レアル・マドリード対バレンシアという、スペイン勢同士の対決となった。同国勢同士の決勝は史上初。スペインのクラブサッカーには勢いがあることを証明する決勝戦だった。

 欧州のサッカー界には攻撃的サッカーの風が吹いていた。1997-98のCL決勝で、攻撃的なレアル・マドリードが、守備的なユベントスを破ったことで、欧州サッカーは流れが変わった。相変わらず守備的なイタリア、ドイツと、スペインが旗振り役を務める攻撃的陣営とに、欧州サッカー界は2分されていた。

 2002年日韓共催W杯を目前に控えた2001‐02シーズンのCL決勝でも、レアル・マドリードが優勝。過去5年間で隔年ごとに3度優勝を飾り、欧州にその名を轟かせた。その余勢を駆って、2002年W杯を戦うスペイン代表への期待は、4年前のフランス大会以上に高まっていた。

 ところが、光州で行なわれた準々決勝で、開催国の韓国に延長PKの末に敗れてしまう。延長前半2分にはホアキン・サンチェスの折り返しを、フェルナンド・モリエンテスが頭で押し込んだが、判定はノーゴール。副審は、キックの前にゴールラインを割っていたとフラッグを上げたが、スロー映像で見るとボールはオンラインで、スペインはいわば誤審に泣いた格好だった。

 大会直後、スペインを訪れれば、顔見知りの地元記者がさっそくこの誤審について、同意を求めてきた。「でも1982年スペインW杯の、対ユーゴスラビア戦のジャッジよりは数段マシでしょ」と、筆者が意地悪く切り返すと、彼は急に顔を曇らせ、沈黙してしまうのだった。

 続くユーロ2004。スペインは開催国に立候補していた。国民の多くは、同様に立候補していたポルトガルに、まさか招致合戦で敗れることはないだろうと楽観的になっていたという。結局、開催国はポルトガルに決まったのだが、スペインがポルトガルに対して大国風を吹かせ、招致活動で遅れを取ったことが、番狂わせを許した理由だとされる。

 皮肉なことに、抽選の結果、スペインとポルトガルはグループリーグを同じ組で戦うことになった。リスボンのジョゼ・アルバラーデで行なわれたこの一戦。勝ったのはポルトガルで、その前の試合でギリシャに引き分けていたスペインは、あえなくグループリーグ落ちとなった。
(つづく)