鋭いスイングが、朝焼けのグラウンドに風切り音を響かせる。 音の主は、10月20日に行なわれる、プロ野球ドラフト会議での指名が期待されている、呉港の田中多聞(たもん)。高校通算48本塁打を積み上げた長打力、50メートルを6秒フラットで駆ける…

 鋭いスイングが、朝焼けのグラウンドに風切り音を響かせる。

 音の主は、10月20日に行なわれる、プロ野球ドラフト会議での指名が期待されている、呉港の田中多聞(たもん)。高校通算48本塁打を積み上げた長打力、50メートルを6秒フラットで駆ける走力、兼務した投手で最速145キロを叩き出した強肩の三拍子を兼ね備える、アスリート型の外野手だ。


プロ注目の呉港のスラッガー・田中多聞

「野球は高校で終わろう」

 田中を指導するのは、阪急など3球団で16年間現役を続け、広島で16年間コーチを務めた片岡新之介。プロに身を置いた経験を交えながら、選手としての魅力をこう語る。

「練習、試合での全力疾走を絶やさない、頑張り続けられる精神がある。プレーでも打つだけじゃなくて、走る力、投げる力があるのでプロでも間違いなく通用します。素材としても推薦できるし、(大学などを経由して)4年後にプロに入るよりも早く出てきますよ」

 夏の広島大会開幕までにプロ全球団が視察に駆けつけた、中国地方屈指の注目度を誇る存在だが、昨秋の公式戦終了時点で高校通算本塁打は11本。下級生時代から中堅手のレギュラーを掴み、地元で知られる好選手ではあったが、圧倒的な存在ではなかった。

 昨秋の広島大会では、初戦で英数学館に敗退。伏兵に足をすくわれ、早々にオフシーズンに突入した。

 そんな折、片岡が発した一言から、田中の野球人生が大きく動き出す。

「プロのスカウトが興味を持っている。プロに行けるチャンスがあるぞ」

 この事実を聞き、実際にスカウトが視察に訪れる姿を見て、純粋な喜びを感じた田中だったが、一方で「本当に自分がプロに行けるレベルなのか?」という疑念も抱いていた。これまでの野球人生で「本気で自分を追い込んで練習できていなかった」負い目があったからだ。

 田中は大阪府出身。周囲よりも少し遅い小学5年で野球を始め、中学は、かつて甲子園を席巻した「浪商」こと大体大浪商の付属中へ。同校の野球部にあたる大体大浪商シニアでプレーした。中学野球引退後は、硬式の各種連盟に無所属ながら数多くの甲子園球児を輩出している南大阪ベースボールクラブに所属した。大体大浪商シニアではレギュラーだったものの、南大阪では既存の主力たちに割って入ることができず、控えに甘んじた。

 もともと地元の中学硬式チームの代表を務めるなど、大の野球好きの父に勧められて始めた野球。バレーボールの選手として実業団までプレーを続けた母譲りの身体能力のおかげで一定の結果を残せていたが、"やらされている"意識が拭えず、今ひとつ野球に没頭できない自分がいた。

 そんな背景もあり、高校入学前は「野球は高校で終わろう」と決めていた。系列の大体大浪商に進まず、「小学校の頃に家族旅行で宮島に行ったことがあるくらい」と取り立てて縁のなかった広島にある呉港を選んだ理由も、「最初に声をかけてもらったから」と至極シンプル。当時監督だった佐々木幸治(現・広島修道大エグゼクティブアドバイザー)が、田中の潜在能力を見出し、熱心に誘ったことが大きかったのは間違いないにせよ、高校で野球に区切りをつけようと思っていたからこその即決だった。

部長との激しい口論

 田中が入学する直前の2019年12月に、片岡が呉港の監督に就任した。片岡は選手たちに「グラウンドでの全力疾走を絶やすな」など野球への向き合い方を説いた。類稀な素質を持ちながらも野球に打ち込みきれず、「プロ野球選手」の肩書を失っていった選手の姿を、現役、コーチ時代に嫌というほど見てきたからだった。

 入学以来この姿勢を説かれてきた田中だったが、2年秋までは「やったり、やらなかったり」(田中)。練習同様、そこにもムラがあった。だが、2年秋に片岡からプロ球団が自分に興味を持っている事実と合わせ、スカウトたちがどこを見ているかを伝えられた。田中が回想する。

「監督さんから『プロのスカウトは結果だけで判断しない』と教えていただきました。結果よりも、プレー中の態度や取り組み、ネクストでの準備の仕方だったり、野球に取り組む姿勢を試合のなかで見極めている。だから野球に取り組む姿勢が大切で、全力疾走だけは絶やしてはいけないんだと理解できました」

 片岡とのやり取りと前後して、もうひとつのターニングポイントを迎えた。それが部長の朝山克彦とマンツーマンでの早朝練習のスタートだった。朝山は三重の海星、大阪体育大、大和高田クラブで現役を続け、甲賀健康医療専門での指導を経験したあと、2013年から呉港の部長を務めている。関西人らしいカラッとした明るさが印象的な熱血漢だ。その朝山が記憶を掘り起こす。



田中多聞(写真左)と元プロの片岡新之介監督

「多聞が入学したころから、いい素材だとは思っていました。ただ、自分はアマチュアで終わった人間。プロの基準がはっきりわかっていなかったんですが、プロを深く知る片岡監督に聞いても、『プロに行ける素材よ』と。そう聞いてから、ずっと『気持ちをはっきりさせて、取り組ませないといけないな』とは思っていました」

 昨秋の公式戦を終えてしばらくした、ある日の練習のこと。グラウンドでトス打撃をする選手に「ちょっと代わって」と声をかけ、少しふざけた雰囲気で練習をする田中の姿が朝山の逆鱗に触れた。再び朝山。

「多聞は練習をやらないタイプではなかったですが、秋に負けて気が抜けているような、遊び半分でやっているように見えました。それで『そんな気ぃ入ってない練習するんやったら邪魔や!』と言ったのを覚えています」

 これに田中は「『は?』と納得していないような顔」(朝山)を浮かべ、しばし口論に発展した。

「なんでそこまで言われなあかんのすか!」

「中途半端や言うてるんや!」

 コーチが仲裁に入るほど、互いにヒートアップし、強い言葉をぶつけ合った。上下関係が重要視される体育会、教師と生徒の関係性としては決して褒められるやりとりではないかもしれないが、朝山は「やっと胸の内を見せてきたな」と、ある種のうれしさを感じていた。

朝6時からの1500スイング

 そして、互いに冷静さを取り戻すと、こう田中に声をかけた。

「それだけ気持ち出せるんやったら、もっとできるわ」

 すかさず朝山は、片岡に「多聞に素振りをさそうと思ってるんですが、いいですか?」と、かねてから温めていたスイング強化練習のスタート持ちかける。片岡の許可を得て、田中本人に打診すると、二つ返事で「やります」と答えた。

 そうして、10月初旬から朝6時にグラウンドに出て、素振りに励む日々が始まった。試合で使う金属バットよりも長くて重い、120センチ、1100グラムの竹バットを黙々と振り込んだ。朝山が言う。

「朝6時にグラウンドに出て、軽くアップをしてから振り始めると、寮の朝食の時間までに700本くらい振れます。朝食を終えて、1限目の授業が始まるまでに、今度はティーを打ったり、歩きながら振るドリルをやったり。そうやって、1日約1500本振りました」

 朝山も5時20分ごろに自宅を出発し、6時の朝練開始に間に合うように来る日も来る日も車を走らせ、見守った。雨の日も休みにはせず、屋根のある場所で振り続ける田中の姿に「ようやってんなあ......」と、思わず圧倒された。

 連日の猛練習は当然過酷を極めたが、田中には今までにない感情が芽生えていた。田中が言う。

「最初は手がボロボロになりましたし、振っている時は正直しんどかったです(苦笑)。でも、不思議と逃げ出したいな、やめたいなという気持ちにはなりませんでした。自分は今まで本気で野球をやってこなかった人間なので、むしろ楽しかったんです。しんどいけど、楽しい。最後まで朝練をやり遂げた時に、自分はどうなっているんだろう、どこまでいけるんだろうとも思いながらやっていました」

 手の平にマメができては潰れる過程を繰り返し、手の皮が数段厚みを増すと同時に、田中の打撃は劇的な進化を遂げた。3月に実戦が再開されるやいなや、次々と本塁打が飛び出し、春の公式戦でも強烈な一発をライトスタンドにたたき込んだ。4強まで勝ち進んだ春の広島大会終了時点で、高校通算本塁打は30本近くに達していた。田中が回想する。

「春になると、振り遅れたと思ってもスイングが間に合って、ジャストミートできるようになりました。あと、素振りを続けるなかでフォームを考えながら振るようにもなっていって。下級生時代はトップが浅かったんですが、いい打者の動きを観察して、深いトップを意識すると、変化球に崩されないようになりました。

 ほかにも、秋までは力を抜いて振ると、抜いた分だけ力がなくなって弱々しい振りになっていたんですが、振り込んでからは力を抜いたほうが、ヘッドが走る感覚が出てきました。そういうのを試しながらやっていたら、どんどん野球が楽しくなってきました」

打ち砕かれた自信

 自信を得て、その活躍を見ようとプロのスカウトが試合に駆けつけたことを知り、さらに自信が深まり、やる気が湧き出る。そんな好循環の真っ只中にあった田中だが、逆境にも直面した。ゴールデンウィークに遠征で、鳴門と対戦し、プロ注目の強打者でありながら最速140キロ中盤を誇る本格派右腕の顔も持つ前田一輝に抑え込まれたのだ。朝山が振り返る。

「この試合で(エースの)冨田(遼弥)くんとの対戦はなかったんですが、前田くんに抑え込まれた。スカウトの方も来られるようになって、その気になってきたなかで全国レベルのチームの投手に抑えられて、『自分はプロに行けるんか?』と不安になったんでしょうね。これまでになかったような焦りを多聞から感じました」

 遠征を終え、学校に戻ると、秋と同じように朝山と田中が口論になった。

「あんたがプロ行け言うから、そう思ってやってきたんや!」

「誰がプロ行ってくれなんて頼んだんや!」

 例の如く、不躾に思える物言いにも、朝山は不快感を覚えなかった。これだけ田中の感情が揺れ動くのも、本気で練習に取り組んできた自負があったからこそ。どんどん野球にこだわりを持ちはじめた愛弟子の姿がうれしく、スケジュール帳の当日の欄には「多聞とけんか」と書き留めた。

 田中はここからもう一段強くなった。朝山が続ける。

「次の日の朝はまたケロッとして『やります』とグラウンドに出てきて(笑)。そこから明らかに三振が減って、するにしても自分の形で振りきっての三振に変わってきました。初めてプレッシャーを感じて、それを跳ね返そうと野球をやり始めた。だから自分も多聞が打てなかった時に『しゃあない』とは絶対言わんとこうと思って。『打てんかったな。次や』と絶対に結果から目を背けないようにしました」

 自分の打撃を確立した田中は再び量産態勢に入り、夏の広島大会開幕まで1カ月をきったタイミングで、通算47本まで本塁打数を伸ばした。だが、最後の最後に大きな落とし穴が待っていた。

不完全燃焼だった最後の夏

 開幕3週間前の練習試合で「守備で打球が飛んできた時、ボールが3つに見えた」。熱中症だった。184センチ、83キロまで増やした体重は79キロまで落ちた。急ピッチで調整し、81キロまで戻して夏の大会に入ったが、これまで感じていた体のキレが戻らない。焦れば焦るほどミスショットが増え、3試合で10打数2安打。本塁打はゼロだった。チームも、最終的に優勝する盈進に準々決勝で敗れた。田中が振り返る。

「今までなら仕留められていたボールを擦ってしまったり、焦って力んだり......。夏の成績は論外でした。夏の甲子園は見たくなかったので、まったく見ませんでした。実家に帰省した時も、家のテレビで甲子園がついていたら替えたくらい。完敗していたら、また違ったと思うんですが、勝てる展開なのに勝ちきれなかった。自分が万全で打てていたらとも考えてしまって、見る気になれませんでした」

 夏休みを終え、寮に戻ってからは、夏までの早朝スイングを再開させた。その姿勢に片岡も目を細めた。

「ドラフトは(10月)20日ですけど、入るつもりでそれ以前から準備していないと間に合わない。入ることが目的ではなくて、やっぱり活躍せないかんのでね。想いをもって、行動に移してやりきったのは間違いないので、そういうところはこれからもやっていってほしい」

 記事で使おうと、片岡、朝山、田中の3ショットの写真撮影を打診したが、朝山は「監督との2ショットでお願いします。片岡監督あっての田中多聞なんで」と丁重に断られた。そしてドラフトが近づくなか、朝山はしみじみと物思いにふける。

「片岡監督が辛抱強く見守ってくれたから、今があると思うんですよね。ほかのチームだったら、もっと苦戦して終わったんじゃないかなと思います。周りの先生方も、前は『無理やろ』『プロに行けるって本当なん?』という雰囲気があったんですけど、今は学校中が多聞にプロに行ってほしいと思うようになっています。本当に"運命の日"ではないですけど、いい結果になってほしいですね」

 田中はこう抱負を述べる。

「プロでは、誰かを目標にするよりも、目標とされるような選手になりたいです。『三拍子タイプよりも、ひとつ抜き出た長所がある選手のほうが成功する』とも言われるんですが、走攻守すべてが飛び抜けていたら、関係なく結果を残せるはず。そんな選手になりたい」

 素質を見出し、声をかけた前監督、プロに行ける存在と信じ、じっくりと見守った現監督の片岡、本物の努力を教えた朝山、そして逃げずに練習に励んだ田中本人。誰かひとりの"本気"が欠けていたら、間違いなく今の姿はなかっただろう。

 高水準の走攻守に加え、野球に対する貪欲さの"四拍子"を兼ね備えた選手として、プロの世界へ飛び込む。