川崎フロンターレの育成システムを掘り下げる01(全4回) 近年、川崎フロンターレのアカデミーで育ち、トップチームを経由し…
川崎フロンターレの育成システムを掘り下げる01(全4回)
近年、川崎フロンターレのアカデミーで育ち、トップチームを経由して世界へと羽ばたいていった選手たちの飛躍が際立っている。三笘薫や田中碧は今や日本代表でも存在感を示し、カタールW杯での活躍も期待されている。
育成年代の彼らは、どのような姿勢で練習に取り組み、どのような成長曲線を描いてきたのか。彼らを指導した経験があり、現在は川崎フロンターレU−15の監督を務める玉置晴一に話を聞いた。
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2020年当時の田中碧(左)と三笘薫(右)
川崎フロンターレのアカデミーが実施したセレクションで、当時コーチを務めていた玉置晴一は、ある選手の動きを見て思わず目を見張った。
「まだ子どもなのに、ギリギリで判断を変えるようなプレーをしていました」
三笘薫(現ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオン/イングランド)だった。U−10のセレクションだったから、当時の彼はまだ小学2年生だった。
「教えて身につくようなものとは、また違った"何か"を持っていたので、すごく印象に残っています。小学2年生だと、どうしてもボールに集まりがちですが、薫は一歩引いたポジションで状況を見ていて、そこからすーっと走ってボールを受けると、効果的なパスを出していました。それでいて、ドリブルをしたらしたらで、相手をギリギリのところでかわしていました」
若くして選手から指導者へと転身した玉置は、2005年に川崎フロンターレのスクールコーチに就いた。その翌年からU-12、いわゆるジュニアのチームが発足するのも契機だった。コーチとして、そこで最初に指導したのが、1期生である板倉滉(現ボルシア・メンヒェングラートバッハ/ドイツ)だった。
「本当にこの子はサッカーが好きというか、フロンターレが大好きなんだなというのが最初の印象でした」と、玉置は笑ったが、同時に身長も目を引いた。
「当時から滉は背が高いほうでした。前所属のあざみ野FCではFWをやっていましたが、当時U−12の監督だっ髙﨑康嗣さん(現テゲバジャーロ宮崎監督)がボランチにコンバートしたんです。ただ、ポジションが下がってもFWだったこともあって、とにかくゴールに貪欲でした。セットプレーで点を取っていたイメージが強く残っています」
板倉と同学年で、1年遅れの2007年に入ってきたのが三好康児(現ロイヤル・アントワープ/ベルギー)だった。当時は「ぽっちゃりとしていた」と玉置は再び笑ったが、プレーにはやはり光るものがあった。
「センスという安易な言葉になってしまいますけど、左利きで当時から独特なボールの持ち方をする選手でした。子どものころはどちらかというと、パサーという印象のほうが強かったかもしれません。ただ、今はスピードを活かしてドリブル突破するシーンを見るように、子どもの時も体型的にはぽっちゃりしていましたが、一瞬の"キュッ"といった加速ができる選手でした」
同学年の板倉と三好、ひとつ学年が下になる三笘。それよりも、さらに1歳年下なのが田中碧(現フォルトゥナ・デュッセルドルフ/ドイツ)だった。玉置は「彼を見てきたスタッフの誰もが、今の頼もしい姿は想像できなかったのではないかと思います」と言う。
「彼が活躍したら、いつかこうした話をする機会もあるのかもしれないなと思っていたのですが、碧は本当に甘えん坊というか、人懐っこい子どもでした。泊まりがけの遠征に行った際には、朝みんなで散歩をするのですが、碧は自然ととなりに来て手をつないできたりするんです。
ほかにも僕が座っていると、ひざの上に乗っかってきたり。彼自身がどういう心境だったのかはわかりませんが、とにかく甘えん坊で、そうした行動含め、みんなから愛されるキャラクターでした」
ただし、ピッチに入れば板倉、三好、三笘と同じく目を見張る部分があった。

川崎フロンターレU−15を指導する玉置晴一監督
「幼いころから気づきが多い選手でした。当時はまだ11人制で、小学3年生の時には右SBで試合に出場していたのですが、こちらが言わなくても、チームが危ない場面ではカバーするようなポジショニングを取っていました。
4年生になりセンターラインでプレーするようになってからは、セカンドボールの回収にしても、ボールがこぼれそうな位置にスッと走っていって、ボールを奪っていました。当時から周りが見えているというか、予測ができる選手という印象がありました」
彼らが成長した過程には、髙﨑監督のもと、ただ試合に勝つだけではなく、当時からボールコントロールをはじめ、テクニックにこだわった練習を重ねていたことも大きい。だが、玉置は「選手たちそれぞれが教わったことを自分のものにしようと取り組んでいる姿を間近で見てきたので、プロになったのはその結果だと思います」と語る。
「試合に勝ちたい、うまくなりたい、負けず嫌いという姿勢は、彼ら全員に共通していたことでした。でも、それ以上に、薫が当時のことを『努力すら楽しかった』という言葉で表現してくれていましたけど、おそらく努力すら努力だと思っていなかったのではないかと感じています。
それに、こちらが彼らに努力しろと言わなくても努力していることは、プレーを見ればすぐにわかりました。それは、言ったことが次の練習でできるようになっていたからです。次の練習の時に、明らかな変化が見えるということは、おそらくチームの活動時間外にどこかで練習していたということですから」
また共通していたのは、子どものと時から、その時々の"自分"に向き合い、試行錯誤を重ねてきた点にもある。玉置が言う。
「実は、三好は一時期、試合に出られないこともありました。ぽっちゃりしていた体型を変えようと、食事改善に取り組んだ結果、体重が減った影響から、自分が思い描くような動きやプレーができなくなってしまったんです。そのため、コーチとして練習後に話しかけ、彼の悩みを聞き、前向きになれるように働きかけたことが何度かありました。
同じように滉も、小学5年生くらいの時期には、身体の成長に対して運動神経が追いつかず、やはり思うように身体が動かせない時期がありました。ポジション的にもちょうど後ろをやる機会が多くなっていたこともあり、FWでプレーしたいという思いもまだ残っていたなかで、自分の身体と葛藤していた時期だったので、個人的に話をしたこともありました」
玉置は育成年代の指導者として「どこまで寄り添うかは難しいところですが、そうした彼らの些細な変化を見逃さないことは大事だと思っています」と話す。
冒頭でつづった三笘にしても、セレクションでのプレーを見て驚きを隠せなかったものの、クラブとしては合否に関して議論したという。
というのも、当時の三笘は線が細く、U−10からのスタートとはいえ、中心は小学4年生になる。小学3年生である三笘は、身体的に特徴が発揮できなくなる可能性があった。そのため、「うちでプレーすることが、今の彼のためになるのか」という将来性を懸念したのである。
話し合いの結果、プレーの魅力がまさり、U−10への加入が決まったが、やはり年齢差からくる身体的なハンデに当初は苦戦した。ただ、ここで玉置が驚いたのは、三笘の創意工夫する姿にあった。
「当時からスピードはありましたが、やはり相手と接触してしまうと止められてしまうところがありました。でも薫は、そこであきらめるのではなく、相手と接触する前に勝負を仕掛けることを考え、実践するようになりました。そうやってプレーを工夫し、発展させていく姿を見て、すごく頭のいい選手だなと思った記憶があります。
トップチームに昇格してからは、そのドリブルを『ぬるぬる』といった言葉で表現されていましたが、特別なフェイントをするわけではなく、相手と接触しないようにするすると抜けていくドリブルは、今まで見てきた選手のなかでも一番だったと思います。
薫が試行錯誤してそのドリブルを身につけたように、アカデミーからトップに昇格した選手たちには、その時々の自分で勝っていくために何をしなければいけないのかを考え、取り組んでいく姿勢、すなわち自分で考えられる選手たちだったように思います」
田中にしても、ひとつ年上になる三笘に1対1の勝負を挑み、負けては工夫し、負けては改善することで成長していったという。
「碧の身体の柔らかさは魅力のひとつですが、子どもの頃は体幹が弱くて、少し当たられるとコテン、キックをしてもコテンと倒れてしまうような選手でした。でも、これは彼自身も語っていますが、中学生の時にU-18の練習に参加して、『このままではいけない』と気づいて、努力したと聞いています」
ジュニアの先にはジュニアユース、ジュニアユースの先にはユース、そして頂点にトップチームと、上には上があるのがJリーグクラブのアカデミーの魅力であり、強みだろう。今や世界へ羽ばたいている彼らも、同世代のチームでは存在感を発揮していても、上のカテゴリーの練習に参加し、打ちのめされることで、気づきと成長を持続させてきた。
そして、玉置は言う。
「指導者としても、こういう選手がこう成長していくという、ひとつの指標になりました。今の選手たちにも、当時の彼らの取り組みや姿勢を伝えられるという意味では、自分の財産になっています。アカデミー全体として共通して、ボールを止めて蹴るという技術的なところは大事にしつつ、あとは個人の特徴を伸ばすという目標も一貫しています。
指導のやり方はそれぞれですが、トップチームの鬼木達監督が言うように『技術をベースにして、見ている人たちを魅了する』ということは、U−15の選手たちにも伝えています。フロンターレは攻撃がクローズアップされがちですが、それは守備も一緒。だから、守備でも魅せることができる選手たちを育成できたらと思っています」
三好も板倉も三笘も、そして田中も、幼い頃から「今の自分で、どうすれば勝てるか」を考えて成長していくことのできる選手たちだった。
それは川崎フロンターレを飛び出し、世界を主戦場とする今も変わらない。創意工夫した先で、世界に勝つための答えを見つけてくれるはずだ。
「選手たちの意識がこんなにも違うのか」。フロンターレU―18がトップチームと対戦、その後にどんなことが起こったのか