猪木vsモハメド・アリ。  1976年6月26日。この試合だけはどうしても見たかった。まだ、大学生だったが友人と5000円のチケットを買って日本武道館に行った。短い時間だったが、幸運にもリングサイドでその試合を撮影することができた。197…

 猪木vsモハメド・アリ。
 
 1976年6月26日。この試合だけはどうしても見たかった。まだ、大学生だったが友人と5000円のチケットを買って日本武道館に行った。短い時間だったが、幸運にもリングサイドでその試合を撮影することができた。



1976年6月26日、日本武道館で行なわれた猪木vsアリ戦

 その後、こんなにも長くアントニオ猪木を撮ることになるとは思っていなかった。それなのに50年以上の歳月がすでに経過していた。猪木さんは79歳。私も干支は同じだが、一回り下だ。

 一瞬一瞬の光景がフィルムや印画紙に残っているが、古くても新しくても私にはつい昨日のことのように思える。

普段は心の優しい寂しがりや

 猪木さんの死の4日前。9月27日の夜、私は猪木さんの寝室にいた。猪木さんに呼ばれて、いつものように数人で食事をしたあと、ベッドのそばで過ごすという不思議な時間だった。

 猪木さんとの会話は互いにポツリ、ポツリと交わされる。沈黙の時間が長い。今に始まったことではない。以前からそうだった。

 眼を閉じていた猪木さんが、ふっと何かを言う。最近は声が出なくてよく聞きとれないこともあったが、聞き返すとゆっくり答えてくれた。そして、また、言葉が続いた。時間が止まったようなこの沈黙に苦痛を感じることはない。

 猪木さんはウトウトと目を閉じている。しばらくして目を開けると、こちらを向く。

 リング上とは違って、日常の猪木さんは「心の優しい、寂しがりや」だ。自分であまり食べられないようになってからも、「食べてってください」「飲んでってくださいよ」と声をかけてくれた。

 私はこの日、どうしても話しておきたいことがあった。ずっと前から話そうと思っていた"夢の話"だったが、まだ猪木さんに話していなかったからだ。私はついに切り出した。

「イノキとアリがローマのコロッセオで戦うんです」

 アリという言葉に猪木さんは反応した。

「それをプロデュースするのが猪木さんなんです。猪木さんが知らなかったクローンのイノキとクローンのアリがこの世に存在していたんです。それを知らされたアリは『神の倫理に反する』とは言うのですが、その対決が実現することになったんです。コロッセオの使用許可も下りたんですよ」



国会議員になった猪木は精力的に世界を飛び回り、キューバのフィデル・カストロ議長とも酒を飲み交わして友人になった

 1988年1月、実際に訪れたコロッセオで猪木さんは「血の匂いがする」と言った。私のなかで、プロレス中継で猪木さんの登場時にアナウンスされていた「古代ローマ、パンクラチオンの時代から強い者は人々の憧憬を集めました......」のフレーズがよみがえってきた。猪木さんがコロッセオでその脳裏に浮かんであろう対戦相手が誰だったのかを、語ったことはない。それでも、私は夢のなかに出てきた物語のその先を考えていた。

 猪木さんは何も言わずに私の話を聞いていた。

猪木に国境はなかった

 1976年6月26日に日本武道館で行なわれた「猪木vsアリ」は特別なものだった。まだ、学生だった私は、その空間にいられたことを本当に幸運だったと思っている。

 それから1年数カ月が過ぎて、猪木さんとのおつき合いが始まった。猪木さんはその時のことは「覚えてないなぁ」と言った。それは当然だ。そのへんの学生が緊張してあいさつしただけ......なのだから。

「いつの間にかいたなぁ」と、猪木さんは私に言った。

 私はアントニオ猪木を追い続けた。

 政治の世界に入ってからも猪木さんに国境はなかった。地球レベル、もしくは宇宙レベルの思考と活動が続いた。世界平和友好、食料危機、エネルギー問題、ゴミ問題。人類が直面しているテーマを掲げて真摯に政務に取り組んだ。

 私たちの世代はアントニオ猪木を忘れることはない。

「また旅に行きたいなあ」と猪木さんが言った。

「パラオですか? アメリカですか?」
「何食べます? ホットドッグにしますか?」

 猪木さんは首を振った。

「じゃあ、アイダホのアップルパイにしますか?」

 猪木さんは小さな笑みを浮かべた。

少しでも元気な姿を見せたいよ

 強靭な肉体と精神力を持った男も、「思いがけない」病魔と戦うことになったが、必死に生きようとしていた。だが、この戦いも最終局面を迎えようとしていた。



「ダーッ」。ファンは猪木とともに叫ぶようになった。

 私は、これは猪木さんが用意してくれたプライベートな「別れの儀式」なのかなと思った。私は青い靴下をはいてベッドに横たわっている猪木さんの足を見つめていた。

「こんなに細くなっちゃったんだ」

 猪木さんはその姿をさらけ出した。

「それは人間、見せたくない部分はありますよ。できれば、少しでも元気な姿を見せたいよ」

 あれだけ格好よかったアントニオ猪木の姿と対照的な現実を踏まえたうえで、猪木さんは懸命に生きようとしていた。そこには開き直り以上のものが存在していたのかもしれない。

「なるようにしかならない」という心の叫びが聞こえてきた気がした。

「あるがままの猪木、ありのままの猪木」は格好よすぎた。

「猪木さん、格好よすぎますよ」

 私は眠っている猪木さんに小さな声でつぶやいた。

 アンドレ・ザ・ジャイアントが両手を広げている。

 タイガー・ジェット・シンがサーベルを手にわめいている。

 スタン・ハンセンやハルク・ホーガンがアントニオ猪木に感謝のまなざしを送った。

 サービス精神が旺盛なアントニオ猪木は、彼らと思いっきり対峙した。

 友人だったキューバのフィデル・カストロ議長も、ブラジルのジョアン・フィゲレイド大統領ももう先に旅立った。

 猪木さんがいなかったら、湾岸危機のイラクに行くこともなかっただろう。

 自分は弱っても、最後まで「元気ですか!」という周りへの気遣いを見せながら、猪木さんは静かに呼吸をするのを止めたという。

 10月1日の朝だった。

 その夜遅く、私は猪木さんの顔を見に行った。寝室で猪木さんは静かな穏やかな顔で眠っていた。掛け布団の上の胸のあたりには、赤い闘魂マフラーが置かれていた。

 私は猪木さんとの特別な時間をこんなに長く過ごせたことを幸せに思っている。

「猪木さん、ありがとうございました」