中日の監督に就任すると迷わず招聘「絶対に必要な人だった」 昨季を限りに中日の投手コーチから退いた阿波野秀幸氏が以前、「僕…
中日の監督に就任すると迷わず招聘「絶対に必要な人だった」
昨季を限りに中日の投手コーチから退いた阿波野秀幸氏が以前、「僕は与田(剛)が辞める時は一緒に辞めようと決めていました」と話していたことがある。2019年に中日の監督に就任し、3シーズンをともに戦った与田剛氏は亜細亜大時代の1つ後輩で親交が深い。阿波野氏の在任中、チーム防御率は飛躍的に改善され、その手腕を高く評価されたが、一蓮托生の想いは変わらなかった。
先輩の想いを知った当時について、与田氏は「正直、複雑でした」と振り返る。
「私が監督に就任した時、全コーチに対して『自分の契約は3年だけど、それが終わった時、球団に残ってほしいと言われたら残ってほしい』と伝えていました。与田に呼ばれたから一緒に辞める、という気持ちは嬉しいですが、選手のために残ってほしかった。自分は身を引くけれど、せっかく良くなってきたものを理解して、引き継いでくれる人がいればと思ったんです」
与田氏が監督を引き受けた時、コーチを務めた時以上に「キチンと引き継がなければいけない」と感じたという。前任者から引き継ぎ、後任者へと引き継ぐ。「ビジネスの世界では当たり前のことだと思うので、僕もそういう意識を大切にしてきました」と言葉を続ける。
「こんないいことがありました、こんな問題がありました、ということは、前任者から後任者に伝えるべきこと。監督やコーチが変わっても、チームのルールや考え方は揺るいではいけないものです。もちろん、いい方向に修正することは大事ですが。そういうことを阿波野さんは特に理解していただける方だったので、僕はすごく助けていただきました」
阿波野氏との付き合いは40年近くにもなる。強豪・亜細亜大硬式野球部の先輩後輩で、学生寮では同部屋だった。当時から顔を合わせれば野球談義に花が咲き、「野球に対する考えはもちろん、まずは社会人として尊敬している」と話す。阿波野氏は1987年に近鉄入りすると、同年に15勝を挙げて新人王に輝くなど一時代を築いた。2000年を限りに現役を退いた後は、プロ・アマ問わず指導者として幅広く活躍。与田氏は「僕にとって、チームにとって絶対に必要な人だった」と投手コーチとして招いた。
任期中に投手陣の成績が上がるも「たまたま」
監督とコーチとして一緒にチーム運営に携わってみると、「先輩ですが、改めて阿波野秀幸という男はすごいなと思いました」と話す。与田氏にそう思わせた理由とは……。
「あんなにしっかり“報・連・相”ができる人はいませんよ。本当にしっかり報告してくれる、連絡してくれる、どんなことでも相談してくれる。また、何でも伝えるわけではなく、自分で解決できるものは解決して、与田に伝えるべき・相談するべきと判断したら必ずしてくれる。また、その選別が非常にうまい。
野手のコーチを含め、僕は自分に足りないものを持っている人をコーチとして招きました。だから、その部分に関してはコーチに任せ、好きにやってもらいました。もちろん、コーチに任せているから監督の責任ではないということではない。そういう話をとても理解していただきました」
コーチがそれぞれ好き勝手に指導するのではなく、まずは「コーチ同士でも“俺の基本”はみんな違うので、選手が迷わないように、野手コーチの基本、投手コーチの基本をすり合わせてもらいました」という。そこで決まった基本は1軍、2軍を通じた共通認識として定め、その上で各コーチが持つ強みを発揮してもらった。
3年間の任期中は、通常1チーム4人の投手コーチを5人と増員して注力したこともあり、投手陣の成績は大きく向上した。中でも大野雄大の安定感は飛躍的にアップし、2020年には最優秀防御率、最多奪三振を記録し、沢村賞に輝いた。だが、これは「たまたま」だと話す。
「結果として、与田が監督で阿波野投手コーチだった時に成績を残した。ただそれは、僕の前任者の森(繁和)さん、谷繁(元信)、高木(守道)さん、落合(博満)さんと、これまで雄大に携わった人たちの流れで、たまたま僕の時に花開いただけ。成績が出なかった時も含め、そこまでの過程が大事だったと思うんです。だからこそ、引き継ぎ、ですよね」
もし、またどこかで監督を務めることになったら、阿波野氏にコーチ就任を依頼するのだろうか。「結構怒らせたから、もう断られるかも(笑)」と冗談めかしながらも、言葉に力を込めて言った。
「最大限に助けてくださった方。僕にとって必要な人ですから、その想いは揺るがないですよ」
あと数年で40年を迎えようという信頼関係は、ちょっとやそっとでは変わらないほど固い。(佐藤直子 / Naoko Sato)