サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、勝敗は決めるが、試合の一部ではない?

ACL準決勝でのPK勝ち

 8月25日に埼玉スタジアムで行われたAFCチャンピオンズリーグ(ACL)の準決勝、全北現代(韓国)対浦和レッズ。浦和が延長戦終了直前に追いつき、PKを制して通算4回目の決勝進出を喜んだファンは多いだろう。しかし同時に、あのPK戦のアンフェアさに、大きな疑問をもったファンもたくさんいたに違いない。

 PK戦で使われたのは、浦和のサポーターがはいった北側ゴール裏スタンドの前のゴールである。大旗をもったサポーターが何十人も最前列まで出てきて、全北のキッカーがけるときには大喚声を上げながらピッチレベルからまるでカツオの一本釣りのように上下に激しく振る。それは、守る浦和GK西川周作の目にははいらないが、キッカーにとっては甚だしく集中を妨げるものになったに違いない。

 先行の全北。一番手のMF金甫炅(キム・ボギョン)はセレッソ大阪柏レイソルなどJリーグで通算6シーズンもプレーし、浦和のサポーターの何たるかは百も承知のはずだが、ナーバスになったのか、力なく左にけり、西川にストップされて両手で顔を覆った。

 浦和の一番手のアレクサンダー・ショルツが出てくると、サポーターはすべての旗を下げて声も出さず、ショルツの集中を助けた。そしてキックがゴール左上に決まると、「一本釣りの竿」がいっせいに上げられて「大漁旗」となるのである。

 西川は次のキックも止め、4人目のキャプテン金珍洙(キム・ジンス)のキックは右ポストを叩いてゴールを外れた。浦和は3人目のダヴィド・モーベルグのキックが相手GKに防がれたが、最後は江坂任が力強く決めて5人目のキッカーを待たずに決勝進出を決めた。

■主審の手順は正しかったのか?

 PK戦前、イランのアリレザ・ファガニ主審は両チームの主将、浦和の西川と全北の金珍洙を呼んでコイントスを行った。勝ったのは金珍洙だった。彼は何かを選んだ。私は2回目のコイントスが行われていると思っていたのだが、両チームの主将はそれで分かれた。金珍洙が先攻を選んで、コイントスは終わったのだ。

 「主審は、その他に考慮すべきこと(例えば、グラウンド状態、安全など)がない限り、コインをトスしてキックを行うゴールを決定する。そのゴールは、安全上の理由、またはゴールもしくはフィールドの表面が使用できなくなった場合に限り変えることができる」

 「主審は再度コインをトスし、トスに勝ったチームが先にけるか後にけるかを決める」

 『サッカー競技規則2022/23』の89ページを見ると、第10条(試合結果の決定)の第3項「ペナルティーマークからのキック」の「進め方」「ペナルティーマークからのキックの開始前」にはっきりとこう書かれている。だがこのときのファガニ主審は最初のコイントスを省略し、2回目のコイントスしか行わなかった。ピッチは何の問題もなかった。なぜだったのか、私にはわからない。

 PK戦は、通常、勝ち抜き式の大会で試合が引き分けに終わったとき、次戦に進むチームを決めるための手段として行われている。これが一般化する以前は、再試合をするか、それが不可能なときには「抽選」という手段が使われていた。しかし1970年に国際サッカー評議会(IFAB)がPK戦の使用を正式に認可、以後はこの方法が使われることが多くなった。

 現在では、次戦に進むチームを決める方法は、「アウェーゴールルール」「延長戦」「PK戦」の3つのみが認められ、再試合や抽選は認められていない。ただし、グループリーグで順位を決めるときに大会規約で決められた方法(得失点差、総得点数、直接対決結果、フェアプレーポイントなど)を使ってもさらに決められない場合には、抽選で決めることがある。

■イスラエルを落胆させた「no」の文字

 さてPK戦。これが一般化したきっかけをつくったのは、イスラエル・サッカー協会の事務総長ヨゼフ・ダガンである。1960年代末のことだった。

 日本が銅メダルを獲得した1968年のメキシコ・オリンピックの準々決勝で、日本と同じアジア代表だったイスラエルはブルガリアと対戦、開始早々に先制点を許したが、終了1分前にジェホシュア・ファイゲンバウムが同点とし、延長戦では双方とも得点できず1-1で終了した。この大会の「次戦出場チーム決定方法」が「抽選」だったのである。

 両チームの主将がピッチ上でポットに入れられた封筒をひとつずつ引く。イスラエル主将モルディチャイ・シュピーグラーが引いた封筒にはいっていた紙には、「no」の文字が、そしてブルガリアの主将が取り出した紙には「si」(英語のyes)の文字が書かれていた。イスラエルは大会から去り、ブルガリアは準決勝に進んでメキシコを3-2で下し、決勝に進出した。

 イスラエル協会事務総長だったダガンは、こんな残酷で不条理なものを二度と見たくないと思った。彼の脳裏に浮かんだのは、そのころすでに欧州や南米の国内カップ戦などで使われていた「PK戦」だった。5人ずつPKを行い、決着が着かなければ着くまで行うという方法である。

 さっそく彼は協会会長のマイケル・アルモグと連名で国際サッカー連盟(FIFA)のスタンレー・ラウス会長宛てに手紙を書いた。この手紙が1969年のFIFAの公式ニュース冊子に掲載され、FIFAの審判委員会にいたマレーシア人のコ・ヨー・テイの目を引いた。彼はFIFAに働きかけ、FIFAの提案によって、IFABは1970年6月27日にスコットランドのインバネスで行われた年次総会で正式に認可したのである。

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