サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは「ドイツ」。
■輝いて見えたクライフ
ドルトムントのスタジアムのメインスタンド中央、前から8列目の席からは、左タッチライン際でプレーするヨハン・クライフはわずか10数メートルの距離のところにいた。右足でボールを止めてスウェーデンのDFと対峙し、右足アウトサイドで一歩内側にもち出してキックのモーションにはいるクライフ。
相手があわててそれに食いつくと、クライフはさっと身を翻し、立てた右足のインサイドで左足の後ろを通してボールを縦に出し、あっという間に加速してDFを置き去りにした。そして中央に猛烈な勢いでヨハン・ニースケンスが走り込んでくるのを見ると、右足のアウトを使って鋭く曲がる低いクロス。スライディングしながらこのボールに合わせたニースケンスのシュートは、わずかにゴールを外れた。
クライフがキックのフェイントから右足を返して左足の後ろでボールにタッチしたとき、彼のプーマのシューズの真っ白なソールが目に飛び込んできた。それはまるで、何かがキラッと光ったかのように感じられた。あるいはまた、静かな湖面からいきなり銀のうろこの魚が跳ねたかのようにも見えた。そしてその次の瞬間、クライフはあっという間に遠ざかっていたのだ。
この大会、私は夜ホテルに戻ってからノートにその日の観戦記を書いていた。それまでの試合は2ページほどだったが、この試合は興奮した字でなんと5ページも書いてしまい、ベッドにはいったのは午前2時を回っていた。ワールドカップにくることのできた幸せをかみしめた夜だった。
■ドイツW杯「ラストマッチ」
私の初めてのワールドカップは6月22日、フランクフルトでの「ザイール×ブラジル」で終わるはずだった。しかしカメラマンのMさんが23日のシュツットガルトのチケットを入手してくれ、急きょ行くことにした。帰国便は6月25日である。22日の夜行でシュツットガルトに行き、試合を見て、翌24日にフランクフルトに戻ってくればいい。
シュツットガルトの「ネッカースタジアム」も、当時は陸上競技型だった。ちなみに、この1974年大会で使用された9スタジアムは、ドルトムントを除くとすべてが陸上競技場型だった。切符を片手にたどり着いた席は、なんとゴール裏。しかも前から10列目ぐらいで、イタリア人たちは攻撃に移るたびに立ち上がってしまうから、ほとんどピッチが見えない席だった。それでも試合が進むうちに慣れ、ポーランドの攻撃の素晴らしいスピードと、サイドバックからサイドバックに通すライナーのサイドチェンジパスの正確さは堪能することができた。
優勝候補の一角とされていたイタリアはこの試合を1-2で落とし、同じ第4組のもうひとつの試合でアルゼンチンがハイチを4-1で下したため、1勝1分け1敗、勝ち点3でアルゼンチンと並んだが、得失点差でわずかに劣って3位となり、敗退が決まった。イタリアの試合が終わってからアルゼンチンの試合結果がネッカースタジアムの電光掲示板に示されるまで数分間。「4-1」の文字が出ると、イタリア人たちはいっせいに首を垂れ、無言でスタジアムを立ち去った。
私は暴動でも起こるのではないかと心配した。しかしアルコールなどはいっていないイタリア人たちはまったくおとなしく、ただ車を連ねてアルプス超えの道をイタリア目指して帰っていった。
■地獄のような日々の甘美な一瞬
このワールドカップで私が期待していたひとりに、西ドイツのギュンター・ネッツァーがいた。まるでアメリカンフットボールのクォーターバックのようなゲームメーカーで、超高速のライナーのスルーパスでFW陣を走らせる、誰にも真似のできないプレーを得意としていた。しかしコンディション不良のため最初の2試合では起用されず、3戦目、東ドイツとの最初で最後の東西ドイツ対決の後半に途中出場した。
この試合を、私は、シュツットガルトへの夜行に乗る前、フランクフルトのホテルのテレビで観戦した。ネッツァーが出てくるのを見て、私は急に悲しくなった。「ワールドカップが本当に始まるのはこれからなんだな」と思ったからだ。それなのに、私は、翌々日には帰国しなければならない。結局、ネッツァーにはその後も活躍の機会はなかったのだけれど…。
帰国のフランクフルト空港では、荷物をめぐって多少のトラブルがあった。海外旅行にはこんなトラブルがつきものであり、卑屈にならず、堂々と落ち着いて振る舞わなければならないことを、空港まで見送りにきてくれたTカメラマンから学んだ。彼はもう数年間も、欧州各地を飛び回って取材しているベテランだった。
帰国すると、地獄のような日々が待っていた。なにしろ、私と、いっしょに帰国した編集長を、雑誌の100ページ以上の入稿作業が待っていたのだ。私は横須賀市の自宅に帰ることを許されず、毎日明け方まで仕事をし、それから近くのビジネスホテルで数時間仮眠し、朝食をとったらまた編集部に戻って明け方まで仕事という生活を、7日間も続けなければならなかった。
当時の写真は35ミリのフィルムである。現像されたカラーフィルムを見るには、ルーペを使う。ひとつの机の盤面をすべてガラス張りにした「ライトテーブル」の上にフィルムを乗せ、1コマ1コマをルーペでのぞき、雑誌で使用する写真を選ぶ。ときおり猛烈な睡魔に襲われると、私は、ルーペをのぞき込むかっこうのまま、一瞬目をつむった。せいぜい数秒間だっただろう。しかしこの上なく甘美な時間だった。
そしてその数秒間のうちに、私は夢を見た。その夢のなかでは、クライフがピカッと光るターンを見せ、そして私は、スウェーデンの黄色いユニホームの選手を抜き去ってゴールにシュートを突き刺していた。