サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは「ドイツ」。

■いざドイツ「遠征」へ

 飛行機代は信じ難いほど高く、何か博覧会でもあるらしく、ホテル代もやたら高い。出張経費のすべてを自分でもたなければならないフリーランスとしては、しっかり「計算」しなければならない状況だ。しかし数秒考えて、やはり行くことにした。コロナ禍が始まって2年半、帰国後の「待機期間」がようやくなくなった。日本代表の欧州遠征、ドイツでの2試合である。

「遠征」という言葉は、もう使わないほうがいいかもしれない。大軍を率いてインドにまで攻め入ったアレキサンダー大王ならいざ知らず、「遠征」はあまりに「大時代」的だ。実際のところ、日本代表選手の大半は欧州のクラブに在籍していて、各地からそれぞれに試合会場に移動してきて集まり、試合が終わるとまた所属クラブのある町に戻っていく。日本から参加する選手は、多くても5、6人といった程度ではないか。

 しかも日本サッカー協会は「欧州における日本代表の拠点」をドイツのデュッセルドルフに置き、今回はそのデュッセルドルフの「デュッセルドルフ・アレーナ」を使って2試合を行う。主催は日本サッカー協会で、ホームチームは日本。今後どうなるか知らないが、デュッセルドルフでの「ホームゲーム」は定期的になるかもしれない。「アレーナ」は埼スタに次ぐホームスタジアムとなるかもしれない。「遠征」は遠くなりにけりである。

■現在とかけ離れた1974年の海外出張

 ドイツは私にとって特別な国だ。私が行った最初の外国であり、そして私にとって最初のワールドカップの地だからだ。1974年、私はまだ22歳だった。大学を出て出版社に就職し、『サッカー・マガジン』の正式スタッフとなってまだ2か月のことだった。何より、飛行機に乗るのも初めてのことだった。

 私は前年、1973年の4月から「アルバイト」という立場で『サッカー・マガジン』での仕事を始めた。その年のはじめにベースボール・マガジン社に簡単な履歴書をもって入社希望を伝えにいくと、1か月ほどして「社長が会うからこい」という連絡があった。池田恒雄社長は豪放な方で、一方的に何か話すと、「ガハハ」と笑って「社長面接」は終わった。

 この会社に数多くあった競技ごとの月刊誌のひとつである『サッカー・マガジン』は、私たちサッカー少年の間では聖書のような存在だったが、行ってみると、編集部はわずか数人。アルバイトと言っても、すぐに社員の編集者と変わらない仕事をあてがわれた。

 私が就職先として『サッカー・マガジン』を考えたのは、ワールドカップに行くためだった。入社してすぐの1974年西ドイツ大会は無理だろうが、4年後の1978年アルゼンチン大会なら可能性はあると思ったのだ。この雑誌は1970年メキシコ大会に記者1人を送り込んでいた。1973年の時点で、『サッカー・マガジン』の編集チーフを務めていたHさんは、翌年のワールドカップに記者を1人、カメラマンを2人送り込むことにしていた。

 簡単な話ではない。会社の規定に「海外出張」などない時代である。日本人が海外旅行をできるようになったのは1965年。第二次大戦後1ドル=360円に固定されていた円はこの1973年2月に変動相場に切り替えられたばかりで、海外に行くために日本の銀行で外貨を用意しようとしても、「持ち出し制限」というものがあり、1人500ドルに限られていた。銀行でドルに両替すると、パスポートの日付と金額が書き込まれるシステムだった。念のため言っておくが、クレジットカードのサービスは日本では1960年代に始まったが、1970年代には一般にはまったく普及していなかった。「すべて現金」の時代だった。

■航空券の値段は「給料1か月分」

 そうしたなかで、『サッカー・マガジン』が3人、最終的にはもうひとり記者を追加して(1970年メキシコ大会を取材した経験のある、当時の編集長)、4人のスタッフを現地に送り込むことにしたのは大英断だったし、いわば雑誌の命運を託したビッグプロジェクトだった。海外の通信社からの写真をフルに使うライバルの『イレブン』誌(日本スポーツ出版社)との競争に負けるわけにはいかなかった。

 カメラマンは、2人ともワールドカップ前から欧州に送り込まれていた非常に力のあるフリーランスだった。編集チーフのHさんは取材パスが取れない場合を考慮して、自腹を切ってこの2人に大金を送り、現地で発売になったチケットを買わせてあった。しかし幸運にも記者2人、カメラ2人の取材登録が認められた。チケットはHさんの友人の旅行業者に回され、「ワールドカップ観戦ツアー」が組まれた。1970年のメキシコ大会を東京12チャンネルの『ダイヤモンド・サッカー』がほぼ全試合放送し、ワールドカップは日本でもサッカーファンの間で夢の大会になっていたのである。

 だがチケットが余った。そこでHさんは、アルバイトから正式社員になってまだ1か月の私に「行く気があるか」と聞いてきた。もう記者登録は間に合わない。条件は、休暇という形で自腹で行くこと。ただし試合のチケットは余っているものを使っていい。そして行くのは大会前半だけ。1次リーグが終わったら帰国して雑誌づくりに当たる。飛行機は、日本から欧州に行く最も安い便、アエロフロート(ソ連航空)で、5万5000円だという。

 入社して1か月。もらった給料は1か月分だった。初任給の手取りはちょうど5万5000円ぐらいだった。貯金など皆無だった。だが私は迷いなどしなかった。「1978年」の目標が4年も早くなるのだ。即座に「行きます」と答えた。同じように、私の先輩である女性編集部員のYさんもドイツに行くことになった。

 その晩帰宅すると、私は父に話し、飛行機代を貸してもらうことにした。長年の不摂生でぽっこりとお腹が盛り上がったいまとは違い、22歳の私は体重50キロちょっと。切ろうとしても切れる「腹」など持ち合わせていなかったのである。

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