サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による重箱の隅をつつくような「超マニ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は「チーム役員、交代要員および交代して退いた競技者の座席」―。
■イングランドのサッカー文化の奥深さ
さて、私のお気に入りの本のひとつに、英国のデービッド・バウカムという人が著した『Dugouts』(New Holland Publishers社刊、2006年)という小さな写真集がある。イングランドの「ノンリーグ(フルタイムプロ以外)」のクラブのグラウンドのチームベンチを78クラブ分、ひたすら並べたものなのだが、これがなかなか味がある。
レンガづくりのもの、荷物置き場のような木製の小屋、バス亭の待合小屋のようなもの、両チームのベンチがくっついたものなど、実にさまざまなのだが、「Home」と「Away」がしっかりとあることだけは共通している。ページをめくっていると、そこで土曜日の午後に行われる試合の様子まで想像でき、イングランドのサッカー文化の奥深さを見る思いがする。
ノンリーグのクラブのグラウンドでも、現在では、軽量スティールとアクリルボードを組み合わせた出来合いのチームベンチを据え付けるところが増えているらしい。バウマンはクラブそれぞれの手作り感あふれる古いベンチが消えていくのを惜しみ、この小さな写真集をつくったという。
■地面を掘り下げてベンチを置いた理由
それはともかく、『Dugouts』というその書名である。「ダグアウト」というと、野球場を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。私もそうである。
辞書を引くとこの言葉にはいくつかの意味がある。ひとつは「防空壕(塹壕)」である。ただし第二次世界大戦時の日本のように空爆されたときに非難する地下室というより、陸戦中に相手の射撃や砲撃から身を守るために掘る穴という意味合いが強い。そしてもうひとつの意味が「丸木舟」である。「くり舟」とも言うが、1本の太い木をくりぬいてつくる原始的な船の形だ。
防空壕(塹壕)も丸木舟も「掘ってつくる」ことが共通しているように、「dugout」の「dug」は「dig(掘る)」の過去分詞形で、スポーツの施設で「dugout」と言うと、正確にはグラウンド面から少し掘り下げてつくったチームベンチのことを指す。だが英国では、掘り下げていなくても、チームベンチを「ダグアウト」と呼ぶのも一般的であることが、バウマンの書名からもわかる。
20世紀初頭までの英国のサッカー場には、屋根のついたチームベンチはあまり存在しなかったらしい。最初につくられたのは、1920年代のはじめ、スコットランド北東部の港町のクラブ、アバディーンFCのピットドリー・スタジアムだったという。当時の監督だったドナルド・コールマンの提案で、「ダグアウト」に屋根をつけたチームベンチがつくられた。
コールマンはボクシングと社交ダンスの愛好者で、選手たちのステップワークを見やすいようにと、「ダッグアウト」式にしたと言われている。屋根をつけさせたのは、彼には試合中に思いついたことを詳細にメモする習慣があり、そのノートを濡れさせないためだったらしい。やがて「屋根付きのダグアウト」は英国中のあちこちのクラブのスタジアムで真似されるようになる。
ひとつ余計なことを書いておけば、当時のサッカーには「選手交代」はなかったので、当然、「ダグアウト」には「交代要員」はいない。チームベンチは、もっぱら監督や役員のためのものだった。ルールで許された選手交代は、30年ほど前まで2人だったし、それから四半世紀、コロナ禍前までは3人だった。『Dugouts』でバウマンが紹介しているノンリーグクラブの古びたチームベンチが、今日では信じ難いほど小さく、狭いのは、こうした事情も関係している。
■アメリカがサッカーに与えた影響
1968年に『ダイヤモンド・サッカー』の放送が始まって、日本のファンが「動く本場のサッカー」を見ることができるようになった時代、イングランド・リーグでは選手交代は1人だけで、ベンチには交代要員がひとりしかおらず、その選手は背番号12のユニホームを着て待機していた。「スタート」の11人は、1番から11番である。GKを含めどのポジションの選手がけがをしても、交代するのは12番の選手だった。
そう、サッカーは本来「選手交代ができない競技」だった。しかしいったん選手交代が認められると、またたく間に交代可能人数が増やされ、いまでは「5人交代(延長戦にはもうひとり追加)のゲーム」となった。それにともなって(Jリーグは動きが緩慢だが)、交代要員も増える一方である。ことしのワールドカップでは、実に15人もの選手がベンチに並ぶことになる。「ベンチスタート」は増える一方なのである。
話を戻さなければならない。実は、スポーツ施設での「ダグアウト」はコールマンの発明品ではないのである。「リーグ戦」と同様、これもアメリカの野球からの借り物だったのだ。現在では野球場のすべてが「ダグアウト」式と言っていいだろうが、20世紀にはいったころにはまだグラウンドレベルの屋根付きベンチが一般的だったらしい。しかしこれだと観客席の前列からはじゃまになる。そこで1908年ごろから少しずつベンチの掘り下げ、すなわち「ダグアウト」化が始まり、数年のうちに腰の高さまで掘り下げられるようになる。
野球では一塁側、三塁側を問わず、よくライナーのファウルボールが飛んでくる。ベンチにいるスタッフや選手の安全のためにも、ベンチ前には金網を取り付けたダグアウトが一般的になっている。
アバディーンの2人の選手が1920年代のはじめにアメリカのプロサッカーリーグでプレーしていたことがあり、コールマンは彼らから「ダグアウト」の話を聞いたのではないかというのが、イングランドにおける「ダグアウト」成立の定説だ。しかし一方で、コールマンはノルウェーで指導していた時期があり、この国では屋根付きのベンチが当たり前であったことから思いついたという説もある。