引退式でサポーターに感謝を述べた安英学安英学が新潟に、日本に刻んだもの(後編)前編から読む>> 安英学(アン・ヨンハ…

引退式でサポーターに感謝を述べた安英学
安英学が新潟に、日本に刻んだもの(後編)
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安英学(アン・ヨンハ)が在籍した柏レイソル(2011~2012年)の当時の公式サイトで、選手アンケートを見てみると、「座右の銘、好きな言葉」の欄に、彼は「夢は叶う」と書いている。一見、ごく一般的なポジティブワードに捉えられるかもしれない。しかしその選手半生を知れば、これは安だからこそ言える重い言葉であると気づくはずである。
多くの関係者が証言しているが、高校卒業時、安は決して特別な選手ではなかった。大阪の泉州初級朝鮮学校時代から「天才少年!」と周囲を驚愕させた梁勇基(リャン・ヨンギ/ベガルタ仙台)や愛知朝高と対戦した四日市中央工業の名将、樋口士郎監督から「あれは何という選手? 並外れてスーパーだ!」と称賛を浴びた鄭大世(チョン・テセ/清水エスパルス)とは異なり、その進路を注目する者は誰もいなかった。高校選手権を東京都予選ベスト16で敗退したチームの、まったく無名の中盤の選手。それが当時の安に対する客観的な評価だった。全国大会で活躍しても、プロからオファーが来るのはほんのひと握りという厳しい世界である。実績を考えれば、Jリーガーになりたいなどと口にするのも憚(はばか)られた。
しかし、安はここから夢を描いた。当初はサッカーを辞めて就職を考えていたが、「まだ、やりたいんだろう? やるだけやってダメなら胸を張って帰ってきたらいいじゃないか」と応援してくれた親戚の言葉に発奮し、プロを目指しての浪人を決意したのである。
道は険しかった。Jリーグには外国人特別枠、通称在日枠というものが存在する。日本国籍を持たない者でも、学校教育法の定める一条校を卒業していれば、外国籍選手と見なされないのである。が、それは各チームに1枠だけである。一条高ではない民族学校出身の安は、そのためにも日本の大学に進む必要があった。目指すのは大学卒業時のプロ入りである。受験勉強はもちろん、19歳という成長期にトレーニングを怠るわけにはいかない。ライバルとなる同世代の選手たちは、すでに大学や所属クラブで合宿や公式戦を経験しながら研鑽を積んでいるのだ。そのハンディを埋めるためにも練習は不可欠だが、ひとりでやるには限界がある。同級生が荒川区にある朝鮮第一初中級学校のOBチームを紹介してくれた。
安はこの場所で「あの人と巡り合っていなかったらプロになっていなかった」という出会いを果たす。5歳年上の人物、パク・トゥギである。ラグビー部のOBながらサッカー好きで、朝高卒業後にこの地元のチームでプレーしていたトゥギは奇特で、そして熱い男だった。安がプロを目指していると聞くと、自分も仕事があるにも関わらず、たったひとりの練習に、個人トレーナーよろしく徹底的に付き合い始めたのである。安はトゥギのことを漫画『あしたのジョー』で矢吹丈を育て上げた丹下段平に例えることがある。しかし、丹下にはボクシングジムを作るという野望があった。トゥギにはそれすらない。
当時の気持ちをトゥギに聞いても「特には……。まあ自分もサッカー好きなんで」というだけである。
ふたりは毎朝6時に日暮里駅に集合して、御殿下の東大グラウンドまで移動、午前中はグラウンドでたっぷりとふたりで基礎練習をし、午後は昼休みに出てきた学生や職員のゲームに混ざってボールを蹴った。東大の選手たちも学校とは直接関係のないこの在日のふたりを、まるで古くからの知り合いであるかのように受け入れていた。夕方には荒川の中級学校の校庭に場所を変えて夜遅くまで練習、それが日常であった。ときにはトータルすると、一日12時間ものトレーニングをしていた。トゥギはことあるごとに「ヨンハは必ずプロになれる。大事なのは魂だよ、魂」と言い続けた。
想像してみよう。まったく無名で無所属の19歳の若者とサッカー部でもなかった24歳の男が夢だけを信じて、たったふたりでプロを目指してボールを蹴っていたのだ。「もう年齢的にも遅い」「この1年の空白は埋まらない」「同世代の選手の経験にはもはや追いつけない」等々、諦めるための言い訳を考えれば、数え切れなくあり、ほんの少しでも信念が揺らいだら、その夢ははかなく消えていっただろう。
しかし、安はやり遂げた。立正大に合格し、4年後にはアルビレックス新潟に入団し、プロになったのである。さらには北朝鮮代表にも招集された。新潟でどれほど愛されたかは前編で書いた。
2006年にはKリーグの釜山アイパークに移籍する。北朝鮮代表でありながら、韓国に渡るというアクションは分断された国家の北と南を、在日という立場から橋を架けることに繫がった。しかし、同時にそれはもう北朝鮮代表でのプレーは終わったというふうに周囲の目には映った。
在日サッカー界の関係者は「この(北から南に行く)パターンは本国から見れば、脱北と捉えられてもおかしくない動きですからね。彼が平壌から代表として呼ばれることはもうないでしょう」と語っていた。事実、過去に同じキャリアの軌跡を描いた選手には二度と声がかからなかった。
ところが、安はこの前例のないことをやってのけた。チームのために闘う姿勢とリーダーシップが評価されて、南アフリカW杯予選前、再び北朝鮮代表に召集されたのである。スポーツの力が政治を上回ったとも言えようか。チームメイトもまた「お前、よく戻ってこられたな」と喜んでくれた。南北関係が冷え込んでいたときだけに誰もが驚いたが、またもパイオニアとなった。そして、ついにW杯に出場。グループリーグに出場した全選手の中で最も長い距離(36.22Km)を走り、その名を刻んだ。19歳の頃の彼に、この素敵な未来は描けていただろうか。
在日コリアンである安にとって、Jリーグも北朝鮮代表もKリーグもその属性から言えば、すべてがアウェーであったと言えよう。しかし、彼は自らの存在を日本社会や北朝鮮代表にプレゼンテーションしながら、橋を架け続けた。その跡を後進が続いている。
安は現在、母校立正大サッカー部アドバイザーとして週に一度、大学の練習を見ている。気さくな性格に加え、監督やコーチとは違う立場ゆえに選手もよく相談にやってくる。中にひとり、熱心に慕ってくる日本人選手がいた。意気に感じてアドバイスするうちに自然と仲良くなった。
「ヨンハさんはどうしてプロになれたんですか」
安は浪人時代を思い出しながら答える。「それは努力したからだと思うよ」
「じゃあ、なれなかった他の人は努力をしていなかったんですか」
「うーん」。決して努力をしていなかったわけではない。では自分はどこが違ったのだろうか。自問してから回答を言った。
「俺の場合はやはり背負っているものがあったから、頑張れたというのがあるかな」
日本人とは大きく異なる背景がある。そこで若い選手は考え込んだ。幸か不幸かマジョリティである自分には背負うもの、誰かのために闘うというものがない。
「じゃあ、僕は……」。いつも親身になって話をしてくれる大好きな先輩のことを考えた。「ヨンハさんのために頑張りますよ」「いや、俺はいいよ」。思わず苦笑した。いかにも安らしいエピソードであった。
人柄のことばかり書いてきたが、私にはアスリートとしての安の忘れられないシーンがある。ドキュメンタリー『在日朝鮮人Jリーガー』の中でのワンカット。アルビレックスがJ1昇格を決めた試合の帰りに『情熱大陸』よろしくタクシー内でインタビューを受けているのだが、この試合に後半残りわずかの出場しかできなかったことに対する激情が表情から滲み出ていた。チームの勝利は嬉しいが、先発できなかったことの悔しさ、自分のふがいなさに対する怒り等々、渾然となった熱い感情が安の全身からギラギラと滲み出ていた。これもまた闘い続けてきた彼の本質である。

引退式の翌日、筆者らとトークショーを開催した安英学(右) 撮影/リー・ボヒョン
4月30日の引退セレモニーが終了した翌日、新潟市内の北書店でトークショーが行なわれた。オフィシャルなものではなく、安が新潟のサポーターのために、店主の要望に応えて実現したものである。会場には「これ!AN後援会」の横断幕が飾られていた。イベントが終わり、いよいよ幕が外されるとき、感極まって涙ぐむ人がいた。現役の安を応援する機会はもうない。しかし、この横断幕は後輩たちに受け継がれる。8月5日午前10時、東京朝鮮高校で引退試合が行なわれ、その場で贈呈式も行なわれるという。
近年、ロクな横断幕の話題がなかったサッカー界で、それは大きな意味と輝きを持つだろう。誰かを貶める、挑発・排除するためのものではなく、新潟の人々が心の底からの繋がりを願った横断幕であるのだから。そして安の築いた魂も橋も引き継がれていく。その先にこそ、Jリーグの100年構想はある。
(おわり)

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