かつて千葉ロッテマリーンズで活躍し、ジョニーの愛称として今もファンに親しまれている黒木知宏氏が9日、プロ野球OBクラブの…

かつて千葉ロッテマリーンズで活躍し、”ジョニー”の愛称として今もファンに親しまれている黒木知宏氏が9日、プロ野球OBクラブのオンラインサイン会「Autograph Collection」にゲスト参加した。

その勇姿を知るファンと画面を通じて交流を図るとともに、イベント後の取材では現役時代から今後の目標について語ってもらった。

後編では先の見えないリハビリ生活から復帰、現役引退そして今後の目標についてフォーカスする。

2年半に及ぶリハビリ生活

01年の6月ごろから肩に違和感を感じていた黒木は前半戦だけで11勝を挙げるも、7月27日のオリックス戦を最後に戦線を離脱した。ここから主戦場である千葉マリン(現:ZOZOマリン)からファームの本拠地である浦和で約2年半に及ぶリハビリ生活へ。

ゴムチューブを引っ張り、外でランニングをする日々。芝が剥げても走り続け、ロッテ浦和球場の外野フェンス沿いは”ジョニーロード”とも称されている。

「リハビリするしかないのでね。ただひたすら走る、ひたすらチューブ引っ張ってあとは治療に行く、リハビリする。その繰り返しでした」

状態が良くなり投げ始めれば再び痛みがぶり返す。一進一退どころか二退、三退と逆戻りする日々だった。

焦りと苛立ち、そして先の見えない不安に苛まれ続ける中、暗いトンネルを照らし続けたのはマリーンズファンだった。

「後退しようと思えばいくらでも後退できるので、苦しい時期が続きました。ですけれども、そんな中でもファンの方たちが浦和まで来てくれて『何年でも待ちます!』という言葉が折れそうな心を留めてくれたんです」

マリーンズファンとの堅い絆

力の源となったマリーンズファンとの絆。エピソードはリハビリの時だけではなかった。

話は98年にさかのぼる。マリーンズは6月12日から7月9日まで、現在も日本記録となっている18連敗を喫した。

黒木も連敗中は先発から抑えに回り、途中再び先発に戻るなどフル回転。何とか連敗を止めようとチームのために毎日のようにマウンドへと上がった。それでも故障者も出るなど悪い流れは止まらず、連敗が積み重なっていった。

そして、7月5日のダイエー(現:ソフトバンク)戦で当時の日本記録だった1970年ヤクルトの16連敗に並んでしまった。

この2年前には当時最下位に沈んでいたダイエーが日生球場で敗戦後、バスに乗ったナインをファンが取り囲み、生卵を投げつけた事件が起こっていた。

勝てなくても、リハビリ中でもファンの声が黒木を支えた

この日黒木は翌日の先発に備え先に帰宅していたが、そのシーンが頭をよぎった。しかし、テレビをつけると自身の心を大きく動かす光景が映っていた。

「マリーンズファンがスタジアムの正面で一生懸命応援歌を歌っていたんです。『ファンは怒るんじゃないか』そう思った自分が解せなかった。7月7日は”何がなんでも”という気持ちでマウンドに上がりました」

黒木はこの試合、神戸で行われたオリックス戦で抑えから先発に戻った。脱水症状を起こしながらも9回2死まで力投を続け3−1と完投勝利目前に。

しかし、あと1球のところでハービー・プリアムに本塁打を浴びまさかの同点。降板後の延長12回にサヨナラ満塁弾を喫し敗れ、新記録となる17連敗目を喫してしまった。これが今も語り継がれる”七夕の悲劇”である。

04年、復帰戦でライバルとの投げ合い

01年夏から約2年半に及ぶリハビリを経た04年、黒木はついにマウンドへと帰ってきた。4月17日、東京ドームで行われた北海道日本ハムファイターズ戦だった。

復帰の舞台が本拠地の千葉マリンではなく、敵地であったこと。そのタイミングが何よりも嬉しかった。

「セレモニー的な意味合いを持った復帰戦ではなく、ファームで一番調子がいいと評価をしてくれて、戦力として僕を起用してくれた。選手冥利に尽きる気持ちでいっぱいでした。何より勝ちたい一心でした」

ファイターズの先発は岩本勉。歳も一つ違いで90年代後半からお互いに自軍のエースかつライバルとしてしのぎを削ってきた。岩本も前年未勝利、02年は故障によりわずか4試合の登板に終わるなど、黒木と同時期に苦労を重ねていた。

戦力として1軍に呼ばれたことが何より嬉しかったと語る

黒木は2回裏に3点を失うも、持ち前の気迫溢れるピッチングで以降は無失点で切り抜ける。7回裏先頭に四球となったところで交代するも、6回を投げ3失点と試合をつくった。

対する岩本も同じ7回に2死から四球となったところで交代するまで1失点とこちらも好投を見せ、復帰初勝利は岩本に軍配が上がった。

736日ぶりの勝利となった岩本はお立ち台で涙を見せていた。実は岩本には以前当時の話を伺う機会があった。

「(久しぶりの勝利は)通過点だったので、泣くもんかと思っていました。ただ、インタビュアーさんに『ジョニーさんが〜』と聞かれた際にジョニーの姿が目に入ってきたんです。タオルを巻いて悔しそうにこっちを見ていて。それでグッと来て目頭が熱くなったんです」

そして黒木にその時の岩本の話を紹介するとこう答えた。

「各取材をバックヤードで受けていたのですが、その場で岩本さんの(ヒーローインタビュー)を聞いていました。同じ時期に戦ってライバル心もありましたし、岩本さんもリハビリや勝てない時期などを経てこの日お互いが投げ合った訳ですよね。何て言うのかなと思って聞いていたら僕の名前を出してくれたので、ジーンときました」

黒木の復帰には多くの関係者たちも涙した。マウンドに上がる際はファイターズの応援席からも大きな拍手が沸き起こるなど、真剣勝負の中にも感動が包んだ試合となった。

05年、マリンで1545日ぶりの勝利と10年ぶりのAクラスへ

以降も先発として投げ続け7試合に登板。6月2日のダイエー戦で念願の復帰初勝利を手にした。チームが日本一になった05年、8月28日のオリックス戦では本拠地千葉マリンで1545日ぶりの勝利投手となった。

この勝利は95年以来10年ぶりのAクラスを確定させると同時に、プレーオフ(現:クライマックスシリーズ)進出も決めたものであった。

「04年に復帰して勝利したのが北九州だったので、マリンで勝てていなかった。05年はマリンで勝ちたいと思って臨んだシーズンでした。時間はかかりましたが、プレーオフを決める試合に勝てたのは野球の神様がご褒美をくれた気がしましたね」

日本シリーズでは登板機会はなかったが、アジアシリーズでは11月12日の第3戦チャイナスターズ戦に先発。3回を1失点(自責点0)に抑え、アジアチャンピオンに貢献した。

13年間の現役生活「僕の中で魂を抜いて投げたボールはない」

06年は5試合・07年には1試合に終わるとオフに戦力外通告を受けた。12月までと期限を決めて他球団からのオファーを待つも、黒木の元に届くことはなく現役引退を表明した。

13年間の現役生活とともに、長い怪我との闘いにもピリオドを打った。

「(13年間に)悔いはないです。僕の中で魂を抜いて投げたボールはないという自負の中でやってきたので、やりきった・出し尽くしたと思っています。ただ、後から振り返ると『あの時に戻ったらどうだったかな』というのは今でこそ考えますが、『あれがなかったら今の僕はない』と考えれば、納得はできます」

自身の苦しい経験がコーチ時代に活きた

13年からは日本ハムの1軍投手コーチに就任。当時ルーキーの大谷翔平(現:ロサンゼルス・エンゼルス)の指導を行うなど、5年間にわたり務めた。コーチ時代では、自身が苦しんだ経験が活かされていた。

「(選手たちの)痛みがわかりますね。どこか痛くても言わずに頑張っている選手の気持ちがよく分かります。ただ、痛めている箇所で我慢できる箇所と我慢できない箇所があって、我慢できない箇所は隠しちゃダメです。

(チームにとって)よかれと思ってやったことが逆に2年・3年と大きな痛手になるので。僕は身をもってその話ができました」

我慢できない箇所とはどこなのか。続けて尋ねるとこう答えた。

「肘でも再建手術するようなものは突発的なものだと思うのですが、肩はダメです。肩に違和感を持った時点で考えなければいけないです。痛みを持ったらダメです。『肩がおかしいんですよね』と言われたら中止します。

その時点で早めに処置をすれば先が長くなりますし、無理をしてしまえば先がなくなってしまいます。なので肩だけは本当にダメです」

「違った景色として何があるのか」これからの挑戦

現在は、野球解説者として活躍中。NPBの試合以外にも、NHK-BS1で放送されている「ワースポ×MLB」で解説を務めるなど、MLBにも幅を広げている。

そしてインタビューの最後、”野球人・黒木知宏として今後挑戦していきたいことを尋ねた。

「違った景色を見てみたいです。現役・指導者とやってきましたし、最近は中学生を対象に高校野球に向けての準備をサポートしたりもしました。

なので今は、違った景色として何があるのかを探しています。例えば学生野球で、そこから頂点の景色を見るためには何が必要なのかなど、今まで味わったことのない景色を見て野球界に還元していきたいと思っています」

ジョニーの魂は次世代に受け継がれていくとともに、今後新たなフィールドでの”登板”をファンは楽しみに待っている。

(おわり)

(取材協力:日本プロ野球OBクラブ、写真 / 文:白石怜平 ※以降、敬称略)