試合中の負傷により、昨年7月から長期欠場していた大石真翔が1年ぶりに7.24後楽園ホールで復帰戦を行う。大石は今年デビュー20周年。日本ではなくプエルトリコでデビュー。そんな彼の半生を振り返る。今回は幼少期からプエルトリコ時代。 ――大石選…

試合中の負傷により、昨年7月から長期欠場していた大石真翔が1年ぶりに7.24後楽園ホールで復帰戦を行う。大石は今年デビュー20周年。日本ではなくプエルトリコでデビュー。そんな彼の半生を振り返る。今回は幼少期からプエルトリコ時代。

――大石選手は小さい頃、どんな子供でしたか?

大石:騒がしいけど妙に冷めている子供だったらしいです。幼稚園の時、友達に砂場で砂をかけられ、それを見ていた母親に「やり返しなさい」と言われました。でも「いいよ、友達がすぐに飽きるから」と返答していたみたいです(笑)。

父が土建屋会社の社長で少しだけお金持ち。静岡県民と言うのもあり、のんびりした環境で育ちましたね。

――環境が人に与える影響は大きいですね。ところで何かスポーツは…

大石:やってなかったです。静岡はサッカー王国。子供は物心がつく前、ほぼ全員にスパイクとサッカーボールが渡されます。小学生でやりたくない人は辞めていく。中学に入り精鋭たちが残り、さらに一握りの選手が高校で活躍する。とにかくサッカー人口の裾野がすごいんですよ。

――ボールを蹴って遊んでいる人が町中に溢れているプラジルみたいですね。

大石:静岡は「日本のブラジル」ですね。ただ僕は小学4年で諦めました(苦笑)。チームプレーが苦手だった。あの頃は「なぜ、自分のせいじゃないのに負けるんだろう」と考えていました。走るのも苦手で、走らなくても良い「水泳」を始めました。

――そんな大石少年は、どのタイミングでプロレスに興味を持ったのでしょうか?

大石:中学の水泳部の先輩がプロレス好き。それの影響で夕方4時からワールドプロレスリングを見ました。初めて観た時、小原道由さんが正規軍を裏切り「俺はこっち(平成維震軍)でやっていく!」と言った言葉が記憶に残っていますね。だから平成維震軍ファンでした(笑)。

――プロレスの入り口が越中詩郎選手や木村健悟さんの平成維震軍だったのですね。

大石:ただ僕の住んでいた静岡県富士市はプロレスの興行がなかなか開催されなかった。数年に一回、新日本や全日本が来る。全日本女子プロレスは定期的に大会を開催していましたね。当時年間300試合。アジャ・コングさんやブル中野さんがトップの時代です。

中学の時、全女は何度も観戦しました。今思えば姉の部屋にクラッシュギャルズのポスターが貼ってあった(苦笑)。

高校生になり初めて観た男子プロレスがFMW。Dr.ルーサーというハンニバル風のマスクをした選手がいて魅了されました。いきなり体育館のドアが開いてDr.ルーサーに襲われたんです。普通に生活していて拘束具をつけたレスラーに襲われることなんてないじゃないですか?「なんだこりゃ、超面白い!」と感じました(笑)。

でも90年代は身体の大きい人がプロレスをしている時代。高校生になって週刊プロレスを見るようになり、みちのくプロレスや闘龍門の旗揚げを知りました。「僕と同じくらいの身長のレスラーが活躍している」と。

当時、僕は新聞部で格闘技の経験がなかった。「プロレス好きな文系男子」。日本大学三島高等学校だったのに勉強不足で日大に進学できず(苦笑)。でも親の会社を継ぐため、土木関係の大学に行く必要がありました。いろいろな大学を受験し合格したのが青森にある八戸工業大学です。

東北ということは4年間みちのくプロレスが観られる。それに八戸工大のパンフレットにはレスリング部やサンボ部もあると記載されていた。

その頃サンボと言ったら、みちプロのスペル・デルフィンさんや馳浩さん、吉田万里子さんら渋いレスラーがやっている格闘技というイメージ。それで「やってみよう」と。自分からやってみようと思ったスポーツはサンボが初めてでしたね。

サッカーも水泳も親から勧められて取り組んだものです。ちなみに高校の時に水泳をやらなかったのは同じ学年に全国中学校水泳競技大会女子100m・200m平泳ぎで2冠を達成し、バルセロナオリンピック競泳女子200m平泳ぎで金メダルを獲得した「岩崎恭子」がいたから。金メダリストと一緒に練習するのは、ちょっと(笑)。

――それは確かに嫌かもしれませんね(苦笑)。

大石:大学でサンボ部に入ったら、部員が少なくレスリング部と柔道部と一緒に練習。レスリングの大会が近い時はレスリングの練習、柔道部の試合が近い場合は柔道の練習をしました。

レスリング部の勝村靖夫先生は山口県出身、レスリング業界で名が知れた方でした。勝村先生は「大石、タイガー服部は俺の後輩だ。永田裕志や石澤常光も海外遠征に連れて行った」と。最初は半信半疑でしたが、K-DOJO時代にプエルトリコにタイガー服部さん夫妻が遊びに来ることがあり、勝村先生のことを聞いてみると服部さんの目の色が変わり「えっ、勝村先生のお弟子さんなの?」と言われました。

デビュー後、服部さんにお会いした時「今度メシでも行こう!」と連絡先を教えて頂きましたが、さすがに連絡できなかったですね(苦笑)。それ以外にも大学4年生の時、ミラノコレクションA.T.さんの従兄弟が新入生で入部したりとプロレス関係の方が周りに沢山いました。

――その大石選手が「プロレスラーになろう」と思ったキッカケはなんですか?

大石:大学4年間、仲が良かった友達がいたんです。研究論文も一緒に取り組んでいた友達でプロレスも2人でよく観に行きました。彼以外にも僕の周りにはプロレスファンが多かった。自分が「プロレスラーになる」と言ったら彼らが喜んでくれると思ったんですよね(笑)。

――周りの人たちの笑顔を見たかったのですね。ところでプロレスラーを目指した時、なぜプエルトリコに行ったのですか?

大石:KAIENTAI DOJOがプエルトリコにあったからです。青森にいたのでみちのくプロレスも考えました。でも当時WWEで活躍しているスーパースターTAKAみちのくがプエルトリコで道場を立ち上げたと知った。僕が入るとしたら2期生、先輩が少ないと思った。それで大学を卒業した2日後、プエルトリコに出発しました。

――すごい行動力ですね(笑)。

大石:とにかく1日も早くプロレスラーになりたかった(笑)。事前にTAKAさんと話をして「プエルトリコに来る時、連絡をくれれば迎えの人を行かせる」と言われていました。

実は大学4年生の夏に父が他界したんです。僕は父の会社を継ぐ予定でしたが、父が亡くなったことで僕の将来が無くなりました。それに父が亡くなる1年くらい前、「俺のあとは継がなくてもいい、好きなことをやっていいぞ」と話したことも記憶の片隅にあった。それで大学卒業までの半年間で「レスラーになろう」と気持ちが固まった。

それにプロレスファンは「1度はプロレスラーを目指すもの」だと思い込んでいました(笑)。

――その気持ち分かります。僕もプロレスラーになりたかったです(笑)。

大石:そうなんですよ。「プロレスファンになったら1度はプロレスラーになれるかどうか挑戦してみよう」と考えてプエルトリコに渡りましたね。プエルトリコにはKAIENTAI DOJOの寮と道場があり毎日練習しました。

――当時のKAIENTAI DOJOには誰がいましたか?

大石:NOAHのHi69やヤス・ウラノ、同日入所したハイビスカスみぃちゃん、2AWの十嶋くにお、真霜拳號、PSYCHO、新納刃らがいましたね。

――現役で活躍している選手が多いですね。

大石:確かに多いですね。

――プエルトリコは日本と比べてどうですか?

大石:日本と違い巡業がないので雑用が少なかったですね。TAKAさんの空港への送り迎えやチャンコ作り。IWAプエルトリコにKAIENTAI DOJOの選手が出場する際、セコンドでお手伝いに行くくらいです。

――プエルトリコにはどのくらいの期間滞在していましたか?

大石:約1年です。当時のKAIENTAI DOJOは、デビューして少し経つと他団体に修行に行きます。例えばHi69はみちのくプロレスに修行、真霜拳號がバトラーツに修行に行きました。

僕は2002年1月にIWAプエルトリコの小さいファーム団体があり、そこでデビュー。相手はPSYCHO。よく勘違いされますが日本人レスラーのPSYCHOではなく、プエルトリコのレスラーPSYCHOなんですよ。ちょっと紛らわしいですけど(笑)。

<(2)につづく>

<インフォメーション>
7.24後楽園ホール「Summer Vacation 2022」で1年ぶりに大石真翔がリングに帰ってくる。また遠藤哲哉選手の復帰戦やDDT UNIVERSAL選手権試合 王者・高梨将弘vs挑戦者・岡田祐介戦も行われます。

詳細はDDTプロレスリング公式サイトをご覧ください!
なお試合は動画配信サービスWRESTLE UNIVERSEで配信されます。

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取材・文・編集/大楽聡詞
写真提供/DDTプロレスリング