村上雅則氏はジャイアンツで1964~65年にプレー、通算54試合に登板した 1964年にアジア出身選手として初のメジャー…
村上雅則氏はジャイアンツで1964~65年にプレー、通算54試合に登板した
1964年にアジア出身選手として初のメジャーリーガーとなった村上雅則氏が、19日(日本時間20日)に行われたオールスターゲームを観戦。Full-Countの取材に応じ現役時代を振り返った他、エンゼルス大谷翔平投手に「20勝、40本をやってほしい」とエールを送った。
78歳の村上氏は法政二高から1962年に南海(現ソフトバンク)と契約。プロになる気はなかったというが、当時の鶴岡監督に「アメリカに行かせてやる」と言われたことから入団を決意した。「何の欲もなかった。アメリカに行きたいからプロに入っただけ」と振り返る。
鶴岡監督が約束した通り、64年にジャイアンツ傘下1Aフレズノに派遣される。そこで11勝7敗、防御率1.78と結果を残すと、8月31日にメジャー契約。9月1日のメッツ戦でアジア出身者として初のメジャー登板、同29日のコルト45’s(現アストロズ)戦で初のメジャー勝利投手となった。
翌65年は45登板で4勝1敗8セーブ、防御率3.75と活躍した。ウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビーといったレジェンドとも親交を深めたといい「よくしてくれました」と懐かしむ。2年間の通算成績は54登板で5勝1敗、防御率3.43だった。
1965年オフに南海へ復帰「約束を破ってはいけない」
しかし、同年オフに村上氏は南海に復帰する。本心はジャイアンツに残留したかったというが、“義理”を重視した。当初は3か月間の予定での渡米。契約書もなかったそうで、南海球団が「『(米国に)いていい』というから」米国でプレーを続けたという。ところが65年オフに復帰の要請。「帰ってきてほしいというから。自分はこっち(米国)でやりたかったけど、約束を破ってはいけない」と語る。
南海に復帰したのは何よりも鶴岡監督との“義理”を大事にしたためだった。日本では南海、阪神、日本ハムを渡り歩いて通算566登板、103勝82敗30セーブ、防御率3.64をマークして1982年シーズンを最後に現役を退いた。
村上氏以降、次の日本人メジャーリーガーはなかなか現れなかった。そんな時に野茂英雄氏がドジャースへ。1995年にトルネード旋風を巻き起こした。「そろそろ誰か行ってくれたらいいなと思っていた頃でした」。
以降はイチロー、松井秀喜、黒田博樹、松坂大輔、田中将大ら多くの選手が海を渡り、現在に至る。現役で気になる一人は大谷。「マナーもいいし、いつもニッコリ。チームメートとはしゃいで……こっちに合っている」と目を細める。そして「ドジャースやアストロズ、ヤンキースにいれば20勝ペースで40本塁打するような選手」と低迷するエンゼルスの状況を気にかけつつ「20勝40本をやってもらいたい」とエールを送った。(盆子原浩二 / Koji Bonkobara)