連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第11回 18年ぶりに出場したセンバツでベスト8──2006年の早実は、春…

連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第11回

 18年ぶりに出場したセンバツでベスト8──2006年の早実は、春の段階で古豪復活を印象づけていた。早実のエースは甘いルックスとクールなピッチングで一躍、人気者となる。斎藤佑樹を取り巻く環境はセンバツを経て、明らかに変わっていた。



高校生最後の夏に挑む斎藤佑樹

センバツ出場後の変化

 たしかに、甲子園に出たことで人気者になったかもしれません(笑)。そう感じたのは『輝け甲子園の星』という、野球をやっている高校生にとっては載せてもらうだけでうれしい雑誌の表紙の、一番目立つメインのところに載せてもらったからです。

 高校2年の秋から取材はしていただいて、それまでにも表紙の端のほうに載せてもらったことはあったんですけど、センバツのあとはベスト8の斎藤佑樹が表紙のど真ん中! 優勝したのは横浜高校だし、準優勝は清峰、ベスト4にはPL学園もいたのに、僕が表紙のメインでした。その時点で、「おっ、これはちょっと来たぞ」と思いましたね(笑)。

 実際、甲子園に出てからは早実のブランド力のおかげもあって、女子高生からお手紙をいただくようになりました。そもそもそれまでの僕はモテるタイプではなかったので、女性から手紙をもらったことなんてほとんどなかったんです。それがいきなりたくさんの手紙をいただいて......すごいなぁ、甲子園に出るとこんなふうになるんだと思って、ビックリしました。招待試合で鹿児島に行った時も、「早実だ」「斎藤だ」ってお客さんがすごく盛り上がってくれて、あの頃は甲子園に出て人気者になれたことが、野球選手として素直にうれしかったですね。

 2年の夏に(日大)三高に負けて、2年の秋の明治神宮大会で駒苫(駒大苫小牧)に負けて、3年の春のセンバツでは横浜に負けた。周りからは、荒木大輔さん以来のベスト8だと言ってもらいましたけど、僕には達成感のようなものは欠片もありませんでした。スタミナ不足で、スピードも足りない。こんなんじゃ、とてもじゃないけど夏の甲子園で勝てるなんて思えなかった。僕は最後の夏を前に、上しか見ていませんでした。

 では、日本一になるためにはどうしたらいいのか。2年の夏、三高に負けたあとは反省点をホワイトボードに書き出して秋の大会に向かいましたが、センバツのあとはそういうことは一切していません。なぜならもう反省するとかではなく、前だけを向いていたからです。何をすれば自分が変われるのか、進化できるのか。自分自身の野性的な感覚に頼って、身体をどう鍛えて、どう使って、どう投げれば自分のボールがレベルアップするのか......そこだけを見ながら練習に取り組んでいました。

 だから配球とかではなく、ボールの力で三振を奪うのが楽しかった。実際、5月くらいから目に見えて投げるボールの質が変わっていくのを感じていました。三高、駒苫、横浜のことを意識はしていましたが、彼らというよりも自分自身と戦っていたと思います。

決死の投球フォーム改造

 ボールの質が変わったきっかけは、フォームを変えたことでした。センバツのあとの春季大会で日大鶴ケ丘に負けた次の日のことです。僕とは入れ替わりだった早実の先輩で、高校当時、エースでキャプテンだった早大4年の澤本(啓太)さんにファミレスへ連れていってもらったんです。宮本(賢)さん、大谷(智久、ともに当時は早大4年)さんも一緒でした。

 その時にいろんな話をしていたら、後日、澤本さんが、早稲田の先輩で社会人のトヨタ自動車で活躍している佐竹(功年、早大出身で斎藤よりも5つ上)さんの投球フォームが参考になるのではないか、とビデオを持ってきてくれたのです。

 佐竹さんは身体が小さい(169センチ)のにノーワインドアップで、右ヒザをグッと沈めてから体重移動して、150キロ台のストレートを投げていました。僕はセンバツまでは振りかぶって投げていて、その後もいろんなフォームを試していましたが、佐竹さんの投げ方を参考にしてみたらすごくしっくりきたんです。もちろん右ヒザを沈めることもそうでしたが、僕にはテイクバックの時に握るボールの向きが合っていました。

 それまではボールをセンター方向に向けろと言われていたんですけど、佐竹さんはボールをホームの方向へ向けたままテイクバックします。そこに気づいて試してみたら、右腕を上げていく時に肩甲骨をうまく使える感覚がありました。

 一般的にはボールをホーム方向に向けたまま右腕を上げようとすると肩が引っかかって腕が上がりづらくなると言われています。だからボールをセンター方向へ向けたまま棘上筋などを使ってテイクバックするように言われるんですけど、僕には右ヒザを曲げて、握ったボールをホーム方向へ向けたままテイクバックする......この2つがハマったんです。あの投げ方は自分が変わるためのいいきっかけになりましたし、みるみるうちにスピードが上がっていきました。

 センバツまでは143キロがマックスだったのに、都大会のあとの九州遠征で147キロが出て、その後の早実グラウンドでの岩手の高校との練習試合では149キロが出ました。結果的にはフォームを変えてから10日くらいでスピードが上がったんですけど、あの早実グラウンドでの練習試合でいきなりドンとアップした印象でした。

 アベレージが136〜7キロとかで、力を入れると140キロを超えるくらいの感じだったのに、あのあとはアベレージが140キロを超えるようになりました。それは春の甲子園が「今のままじゃダメだ」と教えてくれて、僕に教えを受け入れられる土台ができたのだと思います。

 新しいフォームはスポンジのように僕に染み込んでいきました。夏の大会を前にした慶應義塾との練習試合でも147キロが出て、三振を15個とりました。あの時の慶應は春の神奈川県大会でベスト4まで勝ち上がっていた強打のチームでしたから自信になりました。このままの感覚でいきたい、早く夏の大会が来てほしいと思っていましたね。

西東京大会初戦でまさかの苦戦

 最後の夏、西東京大会の初戦の相手は都立昭和でした。もちろん勝ったんですが、スコアは3−2。あの時の都昭和にはガムシャラさを感じました。

 僕の140キロ台後半のボールをカンカン打ち返すし、激しいプレーをしてでも勝ちにいくみたいな気持ちの強さがあって......強い私立と戦う時の都立って、勝てないとわかって適当になっちゃうか、勝てなくても自分たちの野球でぶつかろうとしてくるか、どちらかなんです。ぶつかっていこうというチームはうまくハマれば波に乗って、イケイケドンドンになる。そういう時、こちらとしては同じ目線になったら呑まれてしまいます。

 レベル的には絶対に僕らのほうが上のはずだし、センバツで甲子園も経験しているんだし、だったらとことん上から目線で圧倒的に潰してやるみたいな、そういうイメージでいかなきゃダメだったんでしょうね。極端に言えば『オレたちはこんなところで遊んでる場合じゃない』って感じです。

 ところが、チームメイトの空気がそうじゃなかった。思えばセンバツが終わってからずっとそうだったのかもしれません。みんな、どこかでベスト8になった満足感があったのか、練習試合ではミスも多かったし、まとまりもなかった。

 西東京大会の初戦を、薄氷を踏む思いでやっと勝ったのに、試合後のミーティングではやたらと軽い感じだったんです。「このまま行けるっしょ」みたいな......さすがに僕は黙っていられませんでした。「いやいや、今日はおまえら、何もしてないだろ」って、かなり厳しい調子で話をしました。あの試合からみんなにもスイッチが入ったような気がします。

 実際、あの試合に限って言えば、僕が突っ走って勝ったみたいな展開でした。5回に2点を失いましたが三振を15個とったし、ピッチングだけじゃなく、ヒットも2本打ったのかな。セーフティバントも決めた記憶があります。

 2−2の同点で迎えた最終回、先頭バッターが僕で、ヒットを打って、そのあとノーサインで三塁へ盗塁を仕掛けました。何がなんでも1点を奪うんだという気持ちで3塁へ走ったら、バッターがピッチャーゴロを打った。その打球をピッチャーが弾く間に、ヒットエンドランのような形でスタートを切っていた僕は一気にホームへ突っ込みます。そうしたらキャッチャーミットからボールがこぼれて、勝ち越しの1点をもぎとりました。

 最後の夏は技術より気持ちが上回らないと、勝つことは難しい。あの都昭和との試合がすべての始まりで、あそこで負けていたら何もかもがなかったわけですから、それも不思議な感じがします。

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 西東京大会の一歩目を踏み出した斎藤は、日本一を成し遂げるために超えなければならない西東京の3つの難敵に挑むことになる。それは、ともにセンバツへ出場した東海大菅生、春の都大会で敗れた日大鶴ヶ丘、そして夏に強い宿敵、日大三だった。

(次回へ続く)