2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第4回・細谷恭平(中央学院大―黒崎播磨)前編



中央学院大時代の細谷恭平。箱根駅伝は3度出走した

 細谷恭平は今、日本で最も期待されているランナーのひとりだろう。

 ロスのないフォームで、省エネ走行を実現し、2021年2月のびわ湖毎日マラソンにて2時間6分35秒で3位に入ると、同年12月の福岡国際マラソンでは2時間8分16秒で日本人トップとなり、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の出場権を獲得。パリ五輪のマラソン男子日本代表の座を虎視眈々と狙っている。中央学院大時代に駆けた箱根駅伝を含め、レースを外さないのが最大の強み。細谷は、その強さをどのように培ってきたのだろうか。

 細谷は、都大路出場の常連校でもある水城高校(茨城県)の出身である。高校入学時は、箱根駅伝は全然考えていなかったが、高1から3年連続で都大路に出場し、全国の強い選手と走るなかで「大学でも走りたい、強い選手と戦いたいという気持ちが湧いてきた」と言う。

「でも、特に行きたい大学はなかったですし、場所とか大学名とかにこだわりがなかった。練習が自分に合うかどうか、監督ときちんとコンタクトがとれるかを重視していました」

 高校の練習によく見学に来てくれたのは、中央学院大の川崎勇二監督だった。優しく接してくれたうえに、しっかりとコミュニケーションが取れて、印象がよかった。また、1学年上の双子の海老澤剛・太兄弟が中央学院大に進学しており、練習の中身や部の雰囲気などをよく聞いていた。

「その当時の中央学院大は、エリートの選手がめちゃくちゃ入ってくるような大学じゃなかったんです。でも、学年が上がる度に成長し、強くなってシード権を獲っていたんです。その育成力が魅力でしたし、海老澤先輩たちとも一緒に走りたかった。エリート集団よりも中間層が多いところで目立つというか、力になれればいいなって思ったので、中央学院大に決めました」

 細谷は都大路を終え、引退したあと、大学で好スタートをきりたいと思い、ハードな練習を自分に課した。その結果、オーバーワークになり、右膝を痛めた。膝の専門医を始め、いろんな医者に診てもらったが、なかなかよくならなかった。

「1年目は、膝の故障でまったく走れなくてしんどかったです。でも、いつの間にか治ったんですよ(笑)。それは、多分気持ち的なものが大きかった気がしますね。箱根駅伝で海老澤さんの給水をしたんです。その時、目の前で憧れの先輩が走っているのに、自分は何をやっているだろうって気持ちになったんです。すると一瞬にしてすべてが切り替わったというか......それから痛みが消えて、2年から本格的に走れるようになりました」

独学で身につけた上りの走法

 細谷は、故障で走れない状態が続き、ブランクがあった。「復帰しても何か強みがないと埋もれてしまう」と思い、ふだんの練習はもちろん、夏合宿中もがむしゃらに上りを繰り返した。

「最初は、ただ頑張って上っていただけなんですけど、続けていくうちに斜面に対しての体の角度や足の回転の速さなどを微妙に変えていったんです。そうしたら上りやすいフォームが見えてきて、スムーズに上れるようになったんです。完全に独学でしたが、試行錯誤しながら上りのコツを掴みました」

 川崎監督は、箱根駅伝で5区と8区を重視していた。上りをアピールしてきた細谷は、遊行寺の坂のある8区を任された。

「2年の時、初めて箱根駅伝に出させていただきました。その時、監督が狙ったのかどうかわからないですけど、海老澤太さんが7区、僕が8区、剛さんが9区になり、3人で襷をつながせてくれたんです。水城高校の憧れの先輩の給水から1年後、襷をつないで走れるなんて想像しなかったので、すごくうれしかったですし、中央学院大に入ってよかったと思いました」

 遊行寺の坂には面食らったが、初の箱根駅伝で8区3位と上々の走りを見せ、チームは総合9位でシード権を獲得した。

 3年になると、強みである上りを活かして川崎監督が最も重視した5区に抜擢された。軽い走りで坂を上り、区間3位となり、チームの総合6位に大きく貢献した。

「上りはすいすい行けたんですけど、下りとラストの平地で離されたんです。下りは練習すればなんとかなるなって思いましたけど、ラストの平地がきつくて、足のタメがなくなってしまう。そこで差が開くので、そこをどう粘れるかが翌年に向けての課題でしたね」

 チーム練習では、当然だが上りだけのメニューはない。基本的に集団走がメインなので、フリージョグの時間もあまりなかった。ただ、合宿は高地で行なうため、必然的に上りや下りが増え、5区を想定して自分なりに考えて走った。そうすることで平地での脚力もついてきた。

 ラストの箱根駅伝は、2年連続で5区を任された。区間賞はもちろん区間新、そして「山の神」になりたいなど野心はなかったのだろうか。

「3年の時は、区間賞よりもどこまでいけるんだという感じで意識はしなかったです。4年の時は、タイトルとして区間賞を獲ってみたいという思いがありました。でも、山の神になりたいとかはなかったですね。いい位置で襷をもらえたらいろんな可能性があったのかもしれないですけど、襷をもらった時はかなりうしろ(16位)だったんで、少しでも順位を押し上げることしか考えていなかったです。最上級生としてシード権をチームに残して卒業したかったので」

 その頃は青学大、東洋大、早大、東海大らが強かった。箱根の上位を争う常連校に対して、「負けられない」と対抗心を燃やすことはあったのだろうか。

「他大学を意識することはなかったです。一個人がどこの大学に勝ちたいと思っても駅伝は団体戦なので、チーム目標に対して、みんながどれだけ意識がいっているかというのが重要です。自分もチーム目標を達成したい、そのための走りをしたいという気持ちしかなかったです」

同学年の選手の活躍は刺激になる

 他校の同学年のライバルたち、たとえば鈴木健吾(神大―富士通)や田村和希(青学大―住友電工)ら今や日本のトップランナーになった彼らを意識することはあったのだろうか。

「大学の時、鈴木やタムカズ(田村和希)は雲の上の存在でした。鈴木は、ユニバー(シアード<現ユニバーシティゲームズ>)のハーフに出て銅メダルを獲得していましたし、トラックでも結果を残して本当にエリートですよね。社会人になってもロードでは鈴木がダントツに抜けていると思います。タムカズは、トラックなので自分とスタイルが違いますけど、やっぱり同級生の頑張りは刺激になります」

 4年時、鈴木は2区4位、田村は3区2位と好走を見せている。細谷は、5区3位の走りで16位から11位にチームを押し上げ、シード権を狙えるポジションまで順位を戻した。復路は12位ながらもなんとか総合10位でシード権を残した。箱根駅伝は3回出走し、すべて3位。4年時の関東インカレのハーフも3位で、コンスタントに結果を残した。

「3位ばっかりで華がないというか、吹っきれないですよね(苦笑)。そのなかでもコンスタントに結果が残せたのは、自分のパフォーマンスを出しきれるというか、ネジを外せるからだと思います。ちゃんと準備してスタートラインに立てば、調子が悪い時でも出しきって粘れるので、そこまで順位が落ち込まない。それが自分の強みかなと思います」

「外さない男」と言われているが、それを実現しているのが細谷のフォームだ。「究極の省エネ走行」と言われる走りは、大学時代に完成に至った。

「もともとピッチ走行ですし、上半身はペラペラに薄く、全体の筋肉がないんですよ。長い距離を走るうえで僕の筋肉量でトラックのような思いきった走りをしてしまうと絶対にもたない。エネルギー消費を抑えてコンパクトに走ることを常に意識していました」

 手を開いて走るのも細谷の特徴のひとつのように見えるが、それは「追い込まれた時のクセ」なのだという。また、走るうえで川崎監督から生活面での指導を受けたことも大きかった。

「生活面の指導はかなり細かかったですね。合宿先では、靴をきれいに並べるという基本的なことから終わりには『初日に来た時以上に部屋をきれいにして返しなさい』と言われました。日常生活のなかで当たり前のことができない人間が一人前のランナーになれるわけがないとの考えで、監督には人間性を高めていただきました」

 人間的に成長し、競技面では自分の型を完成させ、トラックよりもロードでの距離走や上りで足を磨いた。それが箱根駅伝での快走に結びつき、実業団への道が開けた。

「大学に入ってからは社会人になっても陸上をやりたいと思っていました。それができたのは、箱根駅伝のおかげです。箱根を走った3年間の結果が実業団への道を作ってくれた。箱根駅伝は、僕の人生の転機になりました」

後編へ続く>>前年120位から3位に。細谷恭平が転機を語る