ワールドカップは選手にとって、大きな目標を懸けて戦う舞台である。蹴球放浪家・後藤健生にとっても、決して負けられない大会…

 ワールドカップは選手にとって、大きな目標を懸けて戦う舞台である。蹴球放浪家・後藤健生にとっても、決して負けられない大会だ。ワールドカップに出られるかどうか、ジャーナリストたちも戦いを繰り広げている。

Jリーグ誕生の余波

 というわけで、メキシコ大会では無事に記者席に潜り込んで(?)あのディエゴ・マラドーナの「神の手」も「5人抜き」もアステカ・スタジアムの最高の位置から見ることができました(周囲にはアルゼンチン人記者が多く、「神の手」の時は彼らがみんな「ありゃ、ハンドだよ」と言っていました)。

 ところが、1980年代の末になるとプロ・リーグの創設が決まり、日本でもサッカー人気が高まってきました。そのため、1990年のイタリア・ワールドカップの時には取材希望の記者が増えてしまったのです。

 フリーランス記者に割り当てられたのはたったの「2枠」。そして、岸記念体育会館の地下のラウンジに希望者(代理を含む)が集められて、そこで“あみだくじ”によって割り当てを決めたのです。その結果、僕は補欠の8番でした。

FIFAから追加があれば補欠に回す」というのですが、割り当てが「2」なのに補欠の8番というのでは絶対に無理に決まっています。

■再びの「ダメモト」

 そこで、いろいろ考えた僕はFIFAの広報部長のグイド・トニョーニに事情を説明して、「なんとか申請できないものだろうか?」というFAXを送ったのです(一般人がEメールを使えるようになるのは、その数年後のことです)。

 トニョーニ広報部長には、メキシコ大会の時に挨拶はしていたのですが、特別な顔見知りというわけではありませんでしたから、これも「ダメモト」でしたが、すぐにトニョーニから「いいよ~っ」という返事が来たのです。あっけないほど簡単でした。

 そして、FIFAからJFAに「GOTO宛」として申請書が届いたのですが、JFAは僕が“抜け駆け”をしたので怒って申請書をくれたのは締め切り日が過ぎてからでした。

 そこで、僕はもう一度トニョーニに「こういうわけで締め切りを過ぎちゃったけど、大丈夫?」というFAXを送ったのです。そうしたら、トニョーニから再び「大丈夫だよ~っ」というお気楽な返事が来たというわけです。

■2002年に向けて

 1994年のアメリカ大会のときは、最初から“トニョーニ作戦”を発動しました。「また難しそうだから、直接、僕の分の申請書をもらえませんか」というFAXを事前に送っておいたのです。すると、トニョーニからはまたも「オッケー~っ」という返事が来て、今回は僕の自宅宛で申請書を送ってくれたのです。

 この大会からは、日本に対する割り当ても少し増えました。Jリーグが発足し、2002年大会開催に立候補したことで、FIFAも日本を重視し始めたのでしょう。この時もフリーランス向けのくじ引きがJFAで行われ、僕もくじ引きで当選して申請書を受け取ったのですが、トニョーニから事前に申請書をもらっていたので、わざわざJFAまで申請書を返しに行ったことを記憶しています。

 なお、次の大会からは広報部長がキース・クーパー氏に交代。「トニョーニ作戦」はもう使えなくなりました。

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