日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」中村憲剛×佐藤寿人第11回「日本サッ…
日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
中村憲剛×佐藤寿人
第11回「日本サッカー向上委員会」@総括
1980年生まれの中村憲剛と、1982年生まれの佐藤寿人。2020年シーズンかぎりでユニフォームを脱いだふたりのレジェンドは、現役時代から仲がいい。気の置けない関係だから、彼らが交わすトークは本音ばかりだ。ならば、ふたりに日本サッカーについて語り合ってもらえれば、もっといい未来が見えてくるのではないか。飾らない言葉が飛び交う「日本サッカー向上委員会」、第11回は今年11月にカタールで開催される4年に一度のビッグイベント「ワールドカップ」について語ってもらった。
>>第11回@前編はこちら>>「岡野!なんでパスしてるんだよ!」
>>第11回@中編はこちら>>「タマーダのあとがマキじゃなくて...」
>>第11回@後編はこちら>>「人生で初めて監督に直談判しに行こうと思った」
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南アフリカW杯のパラグアイ戦に出場した中村憲剛
---- 憲剛さんは、2010年の南アフリカ大会ではグループリーグでピッチに立つことができませんでした。あの時の心境はどういったものでしたか。
中村 大会前に戦術を変更して、まずしっかりとした守備を基盤としたサッカーになったので、僕のようなタイプはよほどのことがないかぎり出番はないかな、とは思っていました。
実際に3試合すべて同じスタメンでしたけど、決勝トーナメントに行けば勝たなければいけないので、攻撃にアクセルを踏み込むタイミングが必ずくると考えていたし、それが自分の役目になるとあの時は勝手にイメージをしていたので、きたるその時に向けて心身のコンディションを自分のなかで上げていったんです。
不思議なもので、決勝トーナメント進出が決まってからは、どんどんよくなる感覚が出てきて、パラグアイ戦の前日練習でもキレがあったので、岡田さんもそれを見て、パラグアイ戦の途中から使ってくれたんだと思います。
---- ピッチに立った瞬間はいかがでしたか?
中村 4試合目だったので、日本もパラグアイも明らかにコンディションが落ちていて身体は動かないし、どっちも守備的なチームだったので、いろんな意味で重い試合でしたね。僕は途中からアベちゃん(阿部勇樹)と代わって「点に絡んでこい」と言われてピッチに入りました。
システムもそれまでの4−5−1から4−2−3−1に。自分のなかでは自信があったし、ベンチでの戦況を見ていて、相手のシステムや戦術も含めてやることが整理されていたので、「初めてのワールドカップだ」という特別な緊張感や意識は一切なくて、いつもの試合のように目の前の相手にいかに勝つかに集中していました。いつもと同じ感覚で入れたのはよかったですね。
もちろん、いつもの代表戦とは違う雰囲気ですけど、ワールドカップ感はそこまでなかったです。状態がよかったからなのか、ほとんどそこに意識はいかなかったです。むしろ、3試合出られなかったので試合に飢えていましたし、自分が日本を救うんだという気持ちがかなり高まっていました。
「心は熱く、頭は冷静に」とよく言いますが、あの夢にまで見た大舞台でその状態に持っていけたことは、自分のキャリアにおいて大きな意味があったと思っています。舞い上がってもおかしくない、緊張で押しつぶされてもおかしくない場面でしたから。ただ悔やまれるのは、結果を残せなかったこと。チャンスはありましたから。
---- それこそ、国民的なヒーローになれるチャンスがあったわけですね。
中村 そうなんですよ。ひとつは玉ちゃん(玉田圭司)が左サイドからえぐって、ペナルティエリアに侵入してクロスを入れた場面。並行にポジションを取っていたら点を取れたんですけど、僕はマイナスで待ったことで、玉ちゃんの上げた並行のクロスに合わせることができませんでした。
目の前を通っていくボールを見て「なんでマイナスに出さないの!」と思いました。玉ちゃんからすれば、「なんで憲剛は並行に走らなかったんだよ」と思っているでしょうけど(苦笑)。
あと、延長戦で左サイドから(本田)圭佑のFKに2列目から飛び込んだんですけど、触ったらオフサイドになると思ってスルーしたんですよ。そしたらGKに弾かれて。僕が先に触っていたら入っていたと思います。
大会後、夢にもよく出てきたくらいです。あれも本当に悔いが残りました。あれを決めていればその1点で人生が変わったと思う。勝てば次はスペインだったし。
佐藤 きっと、違った景色を見れていたでしょうね。代表としても、憲剛くんとしても。
---- 改めてワールドカップはおふたりに、どういった影響を与えたのでしょうか。
佐藤 「ワールドカップに出る」と卒業文集に書いたと言いましたけど、出られなかった今思うのは、「それではダメだな」ということ。もちろん代表に入っている時にワールドカップに出たいという目標はありましたけど、出るだけではなく、ワールドカップでどう戦うかという目線にしていかないと、メンバーに入っていくのは難しい。
それだけ、この20年で日本のワールドカップに対する向き合い方が変わってきていると思います。出るのではなく、勝つために何をするべきか。今の時代では、そういう意識を持つことが大事だなと思います。
中村 僕らが子どもの頃は世界のサッカーを見て楽しむ大会でしたけど、日本はもう7大会連続で出場する国になったわけです。ワールドカップの捉え方は、間違いなく大きく変わってきましたよね。
実際にワールドカップのピッチに立って感じたのは、サッカーはサッカーだったということ。一方で、そこで結果を出せれば、人生は大きく変わる大会でもあるということ。イナさん(稲本潤一)もそうですし、圭佑もそう。その影響力は本当に大きいものだとも感じました。
それだけの舞台に立てたことに対して、何とも表現するのが難しい感情があります。なにせ子どもの頃は、別世界の話すぎて夢にすらなってなかったわけですから。
佐藤 夢ですらなかった選手が、そこにたどり着いたのはすごいことですよ。
中村 こういう道筋でワールドカップに到達する人間もいるよ、というのを伝えたいですね。僕の場合はですが、目標にしないことが逆によかったのかなと。望むものは日々コツコツ努力をし続けた先、日常の延長線上にあるものなのかなと。大事なのは、過去でも未来でもなく「今」であって、その積み重ねのなかで到達できる場所なのかなと思います。
---- 今年も4年に一度の大会が開かれますが、引退された今、また現役時代とは違った視点でワールドカップを見ることになりますね。
中村 本当に代表の結果って、この世界において重大なんですよ。それは引退してメディアの仕事をするようになってから、より感じています。
オマーン戦(2021年9月)で負けた時の『DAZN』のスタジオの空気をいまだに忘れられないですから。取り返しのつかない事態が起きてしまったという感じで。僕らの時も負けた時にきっとこうだったのかなと。
佐藤 日本代表だけの問題ではないんですよね。それこそ、日本中にたくさんの想いがありますから。
中村 メディアの方たちもそうだし、サッカーをやっている子どもたちもそう。日本代表の敗戦は、みんなの敗戦になっちゃうんですよ。
正直、そこまでの想いがあるというのは、代表のなかにいた時はわからなかったこと。メディア側にきて、日本代表の負けが、かくも重いものかと気づかされました。もちろん、選手としても重かったんですけど、また別の重さに感じますよね。
佐藤 特にワールドカップの結果は、大きいですよね。次の4年間のサッカー人気にも影響を及ぼしますし。
中村 それは岡田ジャパンの出国と帰国の時も思ったし、その流れでザックジャパンの試合がプラチナチケットになっていった時も感じました。ブラジル大会で惨敗した時は代表のなかにはいなかったですけど、あれだけ人気のあったチームが、手のひら返しで批判されるわけですから。
本当にワールドカップは、人々の感情を大きく揺さぶる、すばらしくも恐ろしいコンテンツです。だからこそ、あれだけ多くの人間が感動し、熱狂するものなんだなと、今、心から感じます。そういう意味では、日本代表には今回のワールドカップで日本中を感動させる、熱狂させる戦いをぜひしてもらいたいです。みんなで応援しましょう!
>>第12回につづく>>
【profile】
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都小平市出身。久留米高校から中央大学に進学し、2003年にテスト生として参加していた川崎フロンターレに入団。2020年に現役を引退するまで移籍することなく18年間チームひと筋でプレーし、川崎に3度のJ1優勝(2017年、2018年、2020年)をもたらすなど黄金時代を築く。2016年にはJリーグ最優秀選手賞を受賞。日本代表・通算68試合6得点。ポジション=MF。身長175cm、体重65kg。
佐藤寿人(さとう・ひさと)
1982年3月12日生まれ、埼玉県春日部市出身。兄・勇人とそろってジェフユナイテッド市原(現・千葉)ジュニアユースに入団し、ユースを経て2000年にトップ昇格。その後、セレッソ大阪→ベガルタ仙台でプレーし、2005年から12年間サンフレッチェ広島に在籍。2012年にはJリーグMVPに輝く。2017年に名古屋グランパス、2019年に古巣のジェフ千葉に移籍し、2020年に現役を引退。Jリーグ通算220得点は歴代1位。日本代表・通算31試合4得点。ポジション=FW。身長170cm、体重71kg。