根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実連載第33回証言者・小川一夫(3) 大学生と社会人の1位、2位指…

根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第33回
証言者・小川一夫(3)

 大学生と社会人の1位、2位指名に限り、逆指名が初めて認められた1993年のドラフト。新制度のメリットを最大限に生かしたのはダイエー(現・ソフトバンク)だった。いずれも「大学球界No.1」と評された右腕の渡辺秀一(神奈川大)、スラッガーの小久保裕紀(青山学院大)を同時に獲得。大変革がなされたドラフトで"圧勝"した。

 成功の裏には、監督就任時から編成の仕事を兼務する根本陸夫の存在があった。新人獲得では西武時代から策士ぶりを発揮していたわけだが、もともと根本は、ドラフト以前の自由競争時代に近鉄のスカウトを務めていた。逆指名は事実上の自由競争だけに、経験者の教えがダイエーのスカウトたちに響いたのだ。

 そのうちのひとりが小川一夫である。球団の地元の九州担当スカウトだったことから根本と行動をともにする機会が多く、いつしか師と仰ぐようになった。のちにダイエーの編成トップとなり、ソフトバンクでも編成と育成の要職を務めてきた小川に、当時の状況から現在までのつながりを聞く。



90年代のダイエーは城島健司(写真左)や小久保裕紀ら、アマチュアの有望選手を次々と獲得した

根本陸夫の死後、編成部長に任命

「逆指名の時はよその球団といろんなことで小競り合い、揉め事がありました。根本さんはそういうのが好きで、面白いと思う人なんです。僕らが揉めているのを知っていて『大丈夫か?』と笑いながら聞いてきたり、『なにか面白いことないんか。何かせえよ。面白くないなあ』と言ってきたり......。それで、根本さんは面白いことしたら喜ぶんだと思って」

 根本は他球団とのトラブルを面白がるだけではなかった。どの球団の、どの人間と揉めているということをすべて把握していた。知っているはずがないと決めつけていた小川は驚いた。この人は只者じゃないと思っていると、スカウトたちに向かってこんな指令がよく飛んできた。

「おまえらは野に放たれた狼と一緒なんだから、獲物一匹くわえて来い。それまで帰って来るな!」

「あいつの家の前にテント張って、ハンコをもらうまで帰って来るな!」

 強烈な言葉だが、根本はごく普通に、簡単に言っていた。あらゆる手段を尽くし「なんとしても逸材を獲る」ということが当たり前の逆指名時代だったから、小川はそうした言葉もすんなり受け入れた。

「真剣な顔ではなく、さりげなく笑いながら言うんですよ。でも、それは根本さんの本音なんですよね。本音だとわかるから、とにかく仕事をして結果を出して、負けないというかね、日本一になるんだと。あの西武を倒すんだ、巨人を倒すんだ、ということしか僕の頭にはなかったから。休みなんて考えたことないし、休みたいと思ったこともないんです」

 根本がそうだったように、スカウト時代の小川は自宅で過ごす時間がほとんどなかった。ずっと出回っているなかで人脈がつくられ、いろいろな情報が入ってきた。

「そのなかで表の情報というのは"氷山の一角"なんです。やっぱり物事は何でも表と裏があるわけで、裏を知らなかったら勝てません。どんなに表できれいなことを言っていたって、裏に何があるかはわからないから。それを知るためには自分で足を運んで、時間を労してやっていかないといけない。だから、そういうなかでは『好き』ということが大事になると思います。

 絶対、『仕事』と思ったら辛いですから。僕は野球が好きだし、目的は日本一になることなので、それを考えたら、暑いとか寒いとか、お腹空いたとか眠いとか、人間の本能的なものは感じるけど、『今日も仕事かぁ』なんて思ったことは一度もなかった。好きな野球で、目的を果たすために結果を出すこと。これが一番の喜びでしたね」

アマの逸材を次々と獲得

 95年、根本が招聘した王貞治(元・巨人)が監督に就任して以降、チームはなかなかAクラス入りを果たせなかった。だが、根本はそれ以前から王を支える体制をつくり続けていた。93年オフに西武とのトレードで秋山幸二、阪神からFAの松永浩美を獲り、94年オフには西武からFAの工藤公康、石毛宏典を獲った一方、ドラフトでも有望選手を続々と獲っている。

 94年に城島健司(別府大付高)、95年に斉藤和巳(南京都高)を1位で指名し、近未来の正捕手と将来のエース候補を獲得。96年には1位で井口忠仁(現・資仁/青山学院大)、2位で松中信彦(新日鉄君津)、3位で柴原洋(九州共立大)と、のちに上位打線に並ぶことになる打者を一気に獲った。

 さらに、97年には1位で永井智浩(JR東海)、2位で篠原貴行(三菱重工長崎)、4位で星野順治(NKK)と、社会人の投手を指名して獲得。この3人は99年に揃って2ケタ勝利をマークし、ダイエーとなって初のリーグ優勝と日本一に貢献した。

 根本は99年4月30日に急逝。王の胴上げを見ることは叶わなかったが、その遺志はさまざまな形で受け継がれた。スカウトとして結果を出していた小川自身、思わぬ形で師の意志を継ぐことになる。

「根本さんが亡くなったあと、僕はチーフスカウトになって、1年後に編成部長になったんです。オーナー代行の中内正さんから言われたんですが、当時、ダイエーのスカウトは半分ぐらいが60歳以上の人でした。『僕でいいんですか? 大先輩がいっぱいいるのに』と中内さんに言ったら、『根本さんがな、おまえが使えるって言っていたんだ』と」

 根本の見立てどおり、小川は編成トップとしても結果を出していく。ドラフトでは99年に内野手の川?宗則(鹿児島工高)、2001年に投手の杉内俊哉(三菱重工長崎)、02年に投手の和田毅(早稲田大)、新垣渚(九州共立大)、03年に投手の馬原孝浩(九州共立大)、05年に内野手の本多雄一(三菱重工名古屋)と、2000年代の投打の主力となる選手を次々に獲得した。

 その過程においては、球界再編で揺れ動いた04年オフ、ダイエー球団がソフトバンクに売却・譲渡されたが、ドラフトを含めた戦力補強に大きな支障はなかった。ダイエー本体が経営難に陥り、産業再生機構に入る事態になっても、小川を中心とするスカウティング体制は揺るがなかった。

「ダイエー時代の最後の2〜3年は、たしかに以前のように十分なお金はなかったです。でも、そういう時代でも、いい選手をちゃんと獲ってますから。お金があって獲れるのは当然として、お金がなくてもできることってあるんですよ。金がないからできないというのは、僕は違うと思う。たとえば、育成選手を獲るのにお金はいらないわけで」

 ソフトバンク元年となった05年のオフ、球界では育成選手制度が発足。支配下選手の最低年俸440万円に対し、育成選手は240万円と定められた。また、入団時に上限1億円の契約金はなく、約300万円の支度金が支払われるのみ。支配下選手に比べれば「お金はいらない」だけに育成選手を増やし、若手の競争を激化させることは難しくなかった。

 反面、育成選手は一軍公式戦に出られず、二軍公式戦出場も1試合5人以内に限定。育成選手が増えるほど、成長に必要な実戦経験を積みにくくなるため、ソフトバンクでは三軍構想が持ちあがる。球団会長となった王の後押しもあり、当時編成育成部長だった小林至(元・ロッテ)が中心となって、11年より三軍制が稼働。それに伴い、小川の立場も大きく変わることになった。

つづく

(=敬称略)