高野山真言宗僧侶・中島龍太郎氏「競馬との縁」前編



競馬の思い出話を語ってくれた真言宗の僧侶、中島龍太郎氏 

 まず、 世の中に競馬と宗教ほど縁遠いものはないであろう。ところが、競馬と意外な「御縁」を持つ僧侶が高野山にいた。2014年、競馬雑誌「優駿」のエッセイ大賞を受賞した僧侶である中島龍太郎(僧名:龍範)師である。さらに、その中島師は、集英社との浅からぬ縁もあったのだ。

 今年の戦国ダービーをどう占うのか。僧侶ならではの競馬観とともに話を聞いてみた。

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 まず、競馬の話の前に、私がどういったいきさつで、僧侶になったかをお話しします。

 私はそもそも最初から仏門に進もうとは思っていたわけではございませんでした。私は神奈川県横浜市の、田園都市線沿線の出身。生まれた家は寺でも何でもなく、一般家庭、いわゆる「在家」の出身になります。

 お恥ずかしい話ですが、幼少より勉強の類(たぐい)はあまり得意ではありませんでした。高校時分は神奈川の高校でラグビー部に所属しており、ポジションはスクラムハーフでした。

 現役での大学受験には失敗しまして、いわゆる浪人をした後、1995年から、和歌山にある高野山大学に行く事になりました。和歌山にはかつて、中学生の頃に友人と友人のお父様と旅行で訪れたことがありました。

 それと、これは本当に巡り合わせなのですが、父が「空海」という、まさに高野山を開いたお大師さまそのものの作品を描いておりました。

 そう。さきほど、私の生まれはお寺ではなく一般家庭と申しましたが、正しくは一般ではなかったですね。父、中島徳博はかつて「アストロ球団」という漫画を週刊少年ジャンプで連載させていただいた漫画家でした。今回、同じ集英社であるSportivaさんの取材というのも、何かのご縁、巡り合わせではないかと感じております。

 高野山大学は仏教系の大学ではありますが、必ずしも仏門に入らなければならないわけではありません。普通に卒業して、普通に就職する学生もいます。お恥ずかしながら、学業が不出来な私は、あろうことか高野山大学で2回も留年してしまいました。

 大学に6年間も行かせてもらっておいて、手ぶらでは卒業できない、という気持ちが芽生えました。両親への罪滅ぼしの気持ちもあって、僧侶になるためのカリキュラムを、大学6年目の1年間で修得することにしました。これが僧侶になるきっかけでした。

 競馬との出会いは99年の春。春休みを利用して、実家に帰省しておりました。その間に建設会社などで日雇いのアルバイトなどをして、短期間で大学生としては結構な額を稼いだのです。さて、このお金をどうしよう。そこで、同じタイミングで帰省して、同じようにアルバイトで稼いでいた高校時代のラグビー部の友人と思いついたのが、「競馬でこのお金を増やそう」という、業(ごう)の深い発想に至るわけですね。

 もともと、浅田次郎先生の作品などで、文学的なアプローチで競馬というものは知っていましたし、この友人に連れられて川崎競馬にも行ったことこそありましたが、それこそ中央競馬と地方競馬の違いもわかりませんでしたし、競馬そのものはまだ、ちょっと距離のある存在でした。

 仲間内で競馬にものすごく詳しい友人がいたので、3人でチームを作って、前日から朝までファミレスで、ああでもない、こうでもない、これはいくらだ、と検討しました。そして、眠い目をこすりながら、横浜市青葉台から車を飛ばして、なぜか中山競馬場へ。何しろ、競馬に詳しくないので、ウインズ(JRAの場外馬券場)に行くという発想がまるでなかったのです。すごく疲れた記憶が鮮明に残っています。

 中山競馬場のモニターで、半ば放心状態で見ていましたね。あの年の桜花賞、1番人気はスティンガーでしたが、プリモディーネが1着、2着がフサイチエアデール。なんとかその馬券を的中させたのです。

 私にとっての競馬の原始体験はビギナーズラックだったわけですが、実は意外にも、そこからはまり込むわけではなかったんですね。何となく、競馬からフェイドアウトしました。

 私は大学卒業後から今に至るまで、密厳院という宿坊寺院に住み込みで生活し、お世話になっております。

 宿坊とは参拝客が宿泊できるお寺のことで、私たちの1日は、朝勤行(ごんぎょう)という、御本尊の前で読経や礼拝のお勤めをすることから始まります。お泊まりになられた参拝客に食事のお膳を運んだり、お布団を敷いたりと、お接待さしあげることも仕事のひとつです。

 2001年春、大学卒業後から、私は蜜厳院にお世話になりながら、毎週火曜日に高野山大学で、趣味である中国語の授業を聴講しておりました。高野山大学の中国語の恩師の影響もあり、いつかは中国の大学に留学したい、という夢を抱くようになりました。しかし、せっせと貯金して、留学費用が貯まったら中国へ行こう、などと殊勝な考えはこれっぽっちもなくて、競馬で大穴をガツンと当てたら中国へ留学しよう、などという、実に世の中をなめきった将来設計を持つようになりました。

 土曜日は競馬新聞をテキストに翌日の猛勉強。日曜日は往復4時間かけて、なんばのウインズ参り。必ず、高野山に戻ってからレースの結果を見るようにしていました。買った馬券がハズれだと知ってしまった後、徒労感を引きずりながら、山に帰るのはツライんですよ。

「外れた馬券とは今生、縁がなかった」と、すっぱりと頭を切り替えて、火曜日の中国語の宿題に集中。こんな感じの毎週のルーティーンが確立されました。

 そうこうしていると、05年に、思わぬ転機が巡って参ります。お大師さまが遣唐使船で中国に向かった途中、台風に見舞われて漂着した福建省の赤岸鎮という村に空海紀念堂というお堂があったのですが、そこに新たに日本人駐在員を派遣するということとなり、たまたま中国語を学習していた拙僧に白羽の矢が立ったのです。

 05年のある日、現地政府との交渉のために中国に出張することになりました。

 関西国際空港を出発するその日はたまたま、ディープインパクトが無敗の三冠馬となった、菊花賞の翌日でした。私は土曜と日曜とお休みをいただき、土曜日は当時関西テレビで放映されていた競馬番組「サタうま!」の公開収録を見学し、日曜日は京都競馬場で歴史的瞬間をこの目に焼き付けてまいりました。

 朝10時出発の翌日のフライトに備えて、その日は難波のカプセルホテルに宿泊。ああ、いい週末だったなあ、これで出張はうまくいくぞ、と思いながら眠りに就いたのです。

 さて、翌日、目が覚めると驚きの光景が。時計の針はまもなく9時になろうかという時間ではありませんか。血の気が一気に引きます。慌ててロッカーに行くと、先に集合している方々からの、嵐のような着信履歴を残しながら、それによってバッテリーが残り僅かとなった私の携帯電話がありました。

 取り急ぎ、現在地点だけ告げ、猛ダッシュで関西空港へと向かいます。するとですね、手配してくださった旅行会社さんがお骨を折ってくださったようで、なんとか乗る予定だった便に滑り込みで間に合ったのです。

 飛行機は遅延することもなく、無事に関空を飛び立ちました。機内テレビでNHKニュースが放映され、ディープインパクト三冠達成と、来場者へのインタビューの映像が流れています。インタビューに答える青年の背後に、見覚えのある坊主頭が映っているではないですか。

「お前、映っとるやんけ!(笑)」と、お叱りを頂戴しましたが、お詫びとして、ディープインパクトの単勝の記念馬券を、お待たせした皆様にお配りしました。

 いやはや、縁とは本当に不思議なものです。

(後編に続く)

(中島龍太郎プロフィール)
なかじま・りょうたろう●僧名は龍範。1976年生まれ、神奈川県横浜市出身。父は『週刊少年ジャンプ』の熱血バトル路線の祖『アストロ球団」などを執筆した漫画家の中島徳博。高野山大学卒業後、蜜厳院で働きながら中国語を学び、06年より中国福建省に駐在。帰国後も高野山にて奉職。14年に雑誌『優駿』にて「競馬好きのお坊さん的幸福論」で優駿エッセイ大賞を受賞。