サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、サッカージャーナリスト・大住良之による「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、サッカージャーナリスト・大住良之による「超マニアックコラム」。今回は、なぜブラサカ黒田智成選手の背中に「15」があったのかについて。

パラリンピックで奮闘した日本代表

 私が所属しているスポーツジャーナリストの団体「一般社団法人日本スポーツプレス協会(AJPS)」が例年開催している「AJPSアワード」。ことしの受賞者に日本のブラインドサッカーをその草創期から牽引してきた釜本美佐子さん(前・NPO法人日本ブラインドサッカー協会理事長)が選ばれ、6月23日、東京都内で表彰式が行われた。

 昨年のパラリンピックに向けた報道のなかでブラインドサッカーもよく知られる競技になってきたが、それまでは一般の理解も低く、日本の統括団体ができる前には、釜本さんが孤軍奮闘という形でスポンサー探しなどに奔走した。目が不自由になる前には伝説的なツアーコンダクターであったことから得意だった語学力や対外交渉の力、人と人を結びつける力をフルに発揮して、釜本さんはエネルギッシュな活動で日本のブラインドサッカーを国際舞台に押し出した。

 東京パラリンピックを前にした2018年に長年務めた理事長を退任、以後は「サポーター」の立場から応援に回り、昨年のパラリンピックでの日本代表の活躍ぶりも「ラジオ」で聞いていたという。

 しかし選手たち、なかでも草創期から日本代表として活躍してきたベテラン選手たちは釜本さんへの感謝の気持ちを忘れてはいなかった。日本は初戦でフランスに4-0で快勝したものの、その後はブラジルに0-4、中国に0-2と連敗し、5/6位決定戦に臨んだ。相手は世界ランキング3位のスペイン。序盤から攻め込まれたが、全員の献身的で集中した守備で防ぎ、前半終了間際に川村怜の浮き球のパスを黒田智成が豪快に決めて先制。後半の苦しい戦いもしのぎきり、1-0で勝利をつかんだ。

■なぜ「15番」だったのか

 しかし試合終了後、黒田がそっとユニホームを着替えたことは、あまり報道されなかった。試合中に使っていた青いユニホームとまったく同じものだったが、その背中には、背番号15とともに、「KAMAMOTO」の文字があったことも…。

 「釜本さんへの感謝を伝えるために、試合前からみんなで考えていた。そして僕が代表して着ることになった」と、後日、黒田は話している。

 ブラインドサッカーは5人制だが、パラリンピックへの選手登録は1チーム10人。日本も10人の選手を登録したが、背番号は4番から6番と12番が抜け、最年少、スペイン戦の前日に18歳の誕生日を迎えた園部優月が最後の14番を付けた。黒田は背番号11だった。「KAMAMOTO」の文字がはいった特別なユニホームに「15」がついていたのは、単に「14の次」という意味だったのだろうか―。

 先日、AJPSアワードの表彰式でこのエピソードが披露されたとき、私は、とっさにまったく違う「意味」を感じた。サッカーのオールドファンにとっては、「カマモトといえば15番」だからである。

■代表選手たちが愛した背番号

 1968年のメキシコ・オリンピックで7得点を挙げて得点王となり、日本を銅メダルに導いたストライカーの釜本邦茂さん(78歳)は、釜本美佐子さんの実弟である。そしてメキシコ・オリンピックで釜本邦茂さんが背中に付けていたのが、「15番」だった。もちろん、当時のユニホームには選手名などはいっておらず、番号だけだったが…。

 プロ時代になって以後、日本代表では、常連になると、固有の番号が与えられるのが慣習になっている。プロ時代の初期には、ラモス瑠偉の10番、カズ(三浦知良)の11番は、ずっと変わらなかった。22番と言えば、ある時代には中澤佑二のものであり、また現在は吉田麻也のイメージそのものだ。本田圭佑は2010年のワールドカップでは18番だったが、その後「4番」という、アタッカーとしては変わった番号を自ら選び、それで押し通した。

 釜本邦茂が日本代表として活躍していいた時代にも、そうしたことはあった。釜本といえば、所属のヤンマーディーゼルで16シーズンにわたって付け続けた「9番」のイメージが強いかもしれない。しかし日本代表では好んで15番を付けたのである。1964年の東京オリンピックでも、そしてもちろん、4年後のメキシコ・オリンピックでも。

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