「日韓W杯、20年後のレガシー」#29 2002年大会の記憶を訪ねて~「大分」前編 2002年日韓ワールドカップ(W杯)…

「日韓W杯、20年後のレガシー」#29 2002年大会の記憶を訪ねて~「大分」前編

 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

 史上初の2か国共催となった2002年大会、日本でW杯の熱狂に包まれた開催地は10か所だった。多くのスタジアムが新設され、大会後にはJリーグをはじめ各地域のサッカーの中心地となったが、そこにはどんな“文化”が育まれたのか。日頃から全国津々浦々の地域クラブを取材する写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、日韓W杯から20年が経過した今、4か所の開催地を巡る短期連載。試合会場の一つとなった「大分」だが、大会前には日本中で話題となる出来事があった。それは来日が大幅に遅れたカメルーン代表と、キャンプ地・中津江村の交流だ。“大遅刻”に注目した多くのメディアが大分県の小さな村に殺到、わずか4日間の滞在となったが、その名は日本全国に知れ渡った。あの大騒動から20年、当時を知る関係者のもとを訪れた。(取材・文=宇都宮 徹壱)

 ◇ ◇ ◇

 今から20年前に日本と韓国で開催された、2002FIFAワールドカップ(W杯)の記憶をたどる旅。今回はいつもと少し違ったアプローチから始めることにしたい。

 毎年12月初旬に発表される、新語・流行語大賞。1984年からスタートし、昭和・平成・令和の3代にわたって38回発表されてきた。このうち、サッカーに関する年間大賞は、これまで3回。すなわち、1993年の「Jリーグ」、2002年の「W杯(中津江村)」、そして2011年の「なでしこジャパン」である。

 1993年はJリーグが開幕した年であり、2011年は女子W杯で日本が優勝した年。どちらも分かりやすい。ところが2002年のW杯については「中津江村」。「不屈のライオン」の異名を持つ、カメルーン代表のキャンプ地となった、大分県にある人口1300人ほどの小さな村が、なぜか「日本代表」や「トルシエ」、「ベッカム」、「ロナウド」を押しのけて、最も日本人の記憶に残ることとなったのである。

 当時を知らない世代のために、中津江村で起こった事実を端的にまとめると、こんな感じだ。カメルーン代表が遅れに遅れて中津江村に到着し、村民との間に心温まる交流が営まれ、その関係性は20年経った今も続いている──。そんな単純明快なストーリーが、なぜ当時の日本人に深い感銘を与えることとなったのか? その謎を探るのが、今回の旅の目的である。

日田市に編入後も残った「中津江村」の名前

「中津江村は2005年5月、前津江村、上津江村、大山町、天瀬町とともに日田市に編入されました。ワールドカップで有名になった坂本休さんは、中津江村の最後の村長さんだったんです。ただし、前津江や上津江が村から町になったのに対し、中津江は編入後も村のままとなりました。流行語大賞のインパクトも確かに大きかったですが、子供たちにアンケートを取ったところ『中津江村の名前を残してほしい』という意見が多かったそうです。それを坂本さんが重視したことも、大きな要因だったみたいですね」

 そう語るのは、カメルーンがキャンプを張った鯛生(たいお)スポーツセンターに勤務する津江みち、46歳である。生まれも育ちも中津江村。大学時代にいったん村を離れたものの「こっちは居心地がいいんですよ。誰もが顔見知りで、何かあったらすぐに助け合いますから」と笑顔で語る。

 実は当初、元村長の坂本への取材の可能性を模索していた。しかし92歳となる今、体調面で長時間でのインタビューに不安があるとのこと。そこで当時、スポーツセンターに職を得て3年目だった津江が、代わって取材に応じてくれることになった。

 鯛生スポーツセンターは、大分市から高速と下道を使っておよそ2時間。急峻な山道(通称「カメルーン坂」)を登りきったところにある。中津江村の鯛生地区には、もともと金鉱山があり、山を掘った残土を積み上げた土地を有効活用するということで、学生向けのスポーツ合宿所が作られた。これが1990年の話だ。

「当初からスポーツ合宿は、ラグビーとサッカーの2本立て。ただしグラウンドは当時、そんなにきれいではなくて、宿泊施設も大部屋の和室だけでした。それが国からの補助金が降りることになり、ワールドカップのキャンプにふさわしく改装されたんです。宿泊施設は和室から洋室になり、二段ベッドも選手のサイズに合わせたベッドを入れて、グラウンドにも照明塔が設置されることになりました」

 キャンプ候補地として正式に申請したのが1999年9月、JAWOC(W杯日本組織委員会)に公認されたのが2000年11月、そしてカメルーンの協会と正式調印したのが、2001年11月29日のことである。ここまでは順調そのもの。カメルーン代表は5月19日に中津江村に到着することになっていた。

カメルーンの到着が遅れるごとに増え続けたメディア

 ところが、待てど暮らせどカメルーンは到着しない。遅延の発端となったのは、シャルル・ド・ゴール空港で勃発した、協会と選手たちとの「ボーナス交渉」であった。ようやくパリを発ったのが、日本時間の22日早朝。しかし航続距離が短い旧型機だったため、途中で何度か給油地に着陸しなければならず、しかも数か国の領空通過を拒否されたため、日本到着はさらに後ろ倒しになってしまった。

 関係者が不安を募らせるなか、この話題に激しく反応したのがメディアである。テレビ朝日の『ニュースステーション』がこの話題を取り上げ、さらに各テレビ局や新聞社が追随。「到着が遅れるごとに、メディアの数は膨れ上がっていきましたね。問い合わせの電話も鳴り止まなかったです」と津江。そして、こう続ける。

「福岡の空港に到着したのが、5日遅れの23日深夜だったのですが、カメルーン代表は24日、サガン鳥栖との練習試合を行う予定だったんです。さらに26日には、神戸でイングランド代表と親善試合。そうなると、中津江村には来てもらえないんじゃないかという話になって、ずいぶんと気を揉みましたね」

 幸い、それは杞憂だった。バス2台を連ねて、カメルーン代表が中津江村に到着したのは、明けて24日の午前3時。深夜にもかかわらず、村民130人と多くのメディア関係者が、待ちに待った「不屈のライオン」一行を出迎えることとなった。

「カメルーンのキャプテンだったリゴベル・ソングが、到着後の挨拶で『僕たちは今、家族になりました』って言ってくれたんです。中津江村の人たちにも、その思いがしっかり通じて、そこから両者の心の交流が始まりました。初めて目にするアフリカの人たちに対して、地元の人たちは笑顔でおもてなしをしていましたし、カメルーンの選手たちも子供たちとの交流会に積極的でした。ドイツ人のシェーファー監督だけは『そんな必要はない』って、不機嫌そうでしたけれど(苦笑)」

「不屈のライオン」を迎える準備は、万端整っていた。沿道に花を植えたり、フランス語の看板を作ったり、警備や世話係を進んで買って出る人もいた。津江いわく「村長の人柄のおかげですね。誰からも慕われる方でしたから」。そんな彼女自身、カメルーンの選手たちとの交流は、生涯忘れえぬものとなったという。

たった4日間の滞在でカメルーン代表が残したもの

「とにかく皆さん、フレンドリーでしたね。フランス語なんて、まったくできない私に『ミチ、ミチ』って声をかけてくるんですよ。『君は誰のファンなんだい?』って気さくに聞いてくる時は、答えに困りました(笑)。なかなか到着しなかった時は気を揉みましたけれど、キャンプ期間は瞬く間に過ぎていって、お別れの時は私も思わず涙ぐんでしまいました」

 到着の遅れに加えて、トレーニングマッチが県外で行われたため、カメルーン代表が中津江村に滞在したのは実質4日間。一方、鯛生スポーツセンターの改修費には、4億円以上が注ぎ込まれた。当時の村の年間予算が、およそ17億円だったことを考えると、それなりに重い負担だったはずだ。しかし津江の言葉を聞いて、少し考えが変わった。

「当時は坂本村長をはじめ、お年寄りの皆さんもお元気で、生き生きと輝いて見えました。大会後もカメルーンとの交流は続いていますし、向こうでも2002年のキャンプのことは語り継がれているそうです。中津江村の名前は残りましたけれど、1300人いた人口は1000人を切ってしまいました。でも、だからこそ、カメルーン代表が中津江村に何を残したのか、語り継いでいく責任が自分にはあると感じています」

 中津江村には、美しい記憶とカメルーンとの絆が残された。この地に暮らす人々にとって、これ以上のレガシーがあるだろうか。(文中敬称略)(宇都宮 徹壱 / Tetsuichi Utsunomiya)

宇都宮 徹壱
1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。