「日韓W杯、20年後のレガシー」#27 埼玉スタジアムを巡る物語・前編 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、…
「日韓W杯、20年後のレガシー」#27 埼玉スタジアムを巡る物語・前編
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
W杯へ向けて各地にスタジアムが新設されたが、そのなかで大会後に最も存在感を示してきたのが埼玉スタジアムだろう。6万人超の収容人数を誇るサッカー専用スタジアムとしての強みを生かし、W杯アジア予選など日本代表のビッグマッチを数多く開催。また浦和レッズのホームとして、熱狂的なサポーターが彩るスタンドは世界に誇る光景となった。そんな日本サッカーの“新たな聖地”は、どのような経緯で誕生したのか。完成に至るまでの舞台裏に迫った。(取材・文=河野 正)
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「最低でも4万人、理想は8万人収容できる国際級のサッカー場を建設したい。駅から500メートルほどの場所に2000ヘクタールくらいの土地がある。(サッカー場への幹線道は)県道路公社でやる」
1992年4月4日、埼玉県の畑和知事は10年後のワールドカップ(W杯)誘致をにらみ、ぶら下がり取材でこんな構想を口にした。埼玉スタジアムが誕生する鼓動だ。
畑知事は在職中、営団地下鉄(現・東京メトロ)の埼玉延伸を要望。南北線が延びて埼玉高速鉄道の終点、浦和大門駅(現・浦和美園駅)ができれば、2000ヘクタールの一角に駅近の競技場を造れると目算したのだろう。幹線道とは、県営サッカー場や東北自動車道の浦和インターに接続し、96年11月28日に開通した新見沼大橋有料道路を指す。
日本サッカー協会は89年11月、国際サッカー連盟に2002年のW杯開催国に立候補することを正式に伝え、91年6月にはW杯日本招致委員会を立ち上げた。これにより誘致を熱望する自治体は、開催に見合う規模のサッカー場建設に向けて調査に入った。
埼玉県サッカー協会の相川曹司会長は90年夏、「協会としてもW杯を呼ぶことになるのでメイン会場は東京としても、相応の競技場を造らないといけない。芝の球技場を最低2面、土のグラウンドも1、2面いる。04年には埼玉国体もあるので検討したい」と述べた。
JR大宮操車場跡地や浦和競馬場も建設候補地に浮上
相川会長は92年2月18日、3万人以上の県営サッカー場建設とW杯会場地として立候補するよう県に請願。県も立候補を決め、7月24日にW杯日本招致委員会へ出願書を出した。
建設候補地は21か所あり、JR大宮操車場跡地や浦和競馬場なども非公式ながら取り沙汰された。
さいたま新都心駅が開業する前、JR京浜東北線大宮駅と与野駅の間にあった広大な土地が操車場跡地だ。交通の便は文句なしだが、サッカー場やサブグラウンドのほか駐車場などの付帯設備を勘案すると、敷地面積が足りなかったようだ。浦和競馬場を県営サッカー場建設予定地に移転し、競馬場にサッカー場を新設する私案も練られていた。
県営サッカー場とW杯誘致の序幕に関わった畑知事は、92年7月の知事選には立候補せず政界を引退。代わって自民党最高顧問だった土屋義彦氏が県政を引き継ぐのだが、6万人超のサッカー場をはじめ、W杯誘致やW杯決勝会場候補地として最後まで横浜市と争えたのは、参議院議長や環境庁長官などを歴任した土屋知事の政治力がものをいった。
県はスタジアム建設予定地を浦和市東部の野田地区に決め、92年9月30日、4万人以上収容のサッカー場建設などを盛り込んだ『第1次基本構想』をW杯日本招致委員会に提出。土屋知事は初登庁から2か月半後の同日、「交通アクセスや集客などの条件のほか、浦和市の強い要望を考慮した」と21あった候補地の中から、野田地区を選定した理由を述べた。
国内15開催候補地に選ばれた埼玉は、94年10月31日に収容人数を4万から6万人に拡大する計画案を発表。湊和夫副知事らが同年のアメリカW杯を視察し、開幕戦や準決勝、決勝会場に名乗りを上げるなら、4万では足りないとの判断に加え、6万人以上の専用サッカー場を切望する声が次々と寄せられたからだ。
10月7日に陳情した相川宗一浦和市長に続き、同11日には日本サッカー協会の長沼健会長が「国内最高の収容能力を持つサッカー専用スタジアムとしていただきたい」と要望。同12日にも埼玉県協会の相川曹司会長から嘆願書が届いている。
選手の誰もが口にする聖地に立つ喜びと重圧
早くから専用競技場にこだわった埼玉県協会の要求に応え、県も92年に提出した『第1次基本構想』の段階から専用競技場を立案。6万人拡大計画を発表した折、「ラグビーをはじめ、コンサートなど各種イベントにも対応できる施設とする」との一文もあったが、専用だけは貫いた。
これこそ2006年ドイツW杯アジア予選から、東京・国立競技場に代わる日本代表の“聖地”となった一番の要因だ。6万3700人収容の専用サッカー場は臨場感が違う。
2008年2月6日、タイとの南アフリカW杯アジア3次予選初戦に先発した山瀬功治は、「スタンドとピッチの距離が近く、規模も大きいので声援を頭の上から感じるんです。この感覚はなかなか味わえない。声援や拍手のシャワーを浴びているようで、すごく気持ちいい。日本代表の大きな武器になっていますね」と、ピッチに立った感覚を説明した。
田中達也は09年3月28日、バーレーンと戦った南アフリカW杯アジア最終予選第5戦に先発。「他のスタジアムとは違い、神聖で特別な場所ですよね。あれだけ大勢の声援を身近に受けるので、より責任感とプレッシャーを感じてプレーしていた。その分、勝った時の達成感は大きく、その後はなんでもできる思いでした」と聖地での喜びと重圧を語った。
日本がW杯に初挑戦したのが、明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で行われた1954年のスイス大会アジア予選だ。W杯予選で国立競技場を初めて使ったのが62年のチリ大会で、日本が初出場した98年のフランス大会まで16回予選会場となった。国立競技場以外では神戸ユニバー記念競技場で3度、西が丘サッカー場でも1度開催している。
ジーコ監督率いる日本は04年2月18日、オマーンとのドイツW杯アジア1次予選初戦で初めて埼玉スタジアムに参陣し、久保竜彦の劇的ゴールで白星スタート。同スタジアムでは1次予選で3連勝し、最終予選でも2連勝を収め、1試合を残して3度目のW杯出場を決めている。
埼玉スタジアムは歴代監督のお気に入りとなり、ドイツ大会から今秋のカタール大会予選まで、28試合戦って23勝4分1敗という出色の戦果を挙げている。
6万人超のサッカー専用スタジアムの建設には反対の声も
1996年5月31日に日韓共催が決まったことで開催都市縮小の危惧もあり、埼玉県は9月3日に6万人超の建設を正式決定した。しかし9月の県議会一般質問では自民、公明を除く議員から反対する声が相次いだ。
県教育局生涯学習部スポーツ企画室長、県住宅都市部スタジアム建設局スタジアム企画課長だった羽鳥利明さんは、「着任したばかりの(96年)5月の臨時文教委員会ではスタジアム建設の集中審議があり、6月と9月の県議会でもサッカー場への質問に対応するのが大変でした」と苦笑しながら26年前を述懐する。
「何百億もかけて大会後は何に使うんだ」
「地域の競技場を整備するのが先決」
「4万としか聞いていない」
「専用サッカー場なんて初耳だ」
羽鳥さんと同じ96年4月から、スポーツ企画室などで従事した新井彰さんも「こんな質疑を繰り返し、質問攻めに遭いました。年間50試合しか使わないのなら、娯楽的な“にぎわい施設”をつくって収益を出すべきとの意見もありました」と、9月の県議会を懐かしそうに振り返る。
6万人規模のスタジアム実施設計補正予算はこの県議会で成立し、01年7月31日に「埼玉スタジアム2002」が完成する。
県は98年、“決勝戦招致100万人署名”活動を展開。10月28日には166万121人もの署名をW杯日本組織委員会に提出した。
埼玉県協会の星野隆之前副会長は浦和駅西口での署名運動中、「知人にはスポーツ文化の醸成が目的、と言って協力してもらった。この活動中にサッカー好きの県民が多いことを改めて実感しました」と話す。
決勝会場は横浜市に譲ったが、イングランド-スウェーデン、日本-ベルギー、カメルーン-サウジアラビアのグループリーグ3試合と、ブラジル-トルコの準決勝を開催。4試合で22万1363人を動員した。
96年12月25日、日本協会から開催地選出の電話を最初に受けた新井さんは、「ハード面であれだけ大きなプロジェクトは、県庁でもなかなかありません。大変だったが関われて幸せでした」としみじみ語る。
地権者との用地買収交渉も行った羽鳥さんの言葉は重い。「昔から埼玉はサッカー王国とか、スポーツ王国とか言われてきましたが、その割には立派な競技施設がありませんでした。埼玉スタジアムの完成で、世界に誇れる施設づくりに少しでも携われたことが誇らしい」と述べ、埼玉スタジアムが県民のレガシーとなり万感の思いに浸った。(河野 正 / Tadashi Kawano)