2005年にオリックスと近鉄が合併した「オリックス・バファローズ」 名将・仰木彬監督は2005年にオリックスと近鉄が合併…
2005年にオリックスと近鉄が合併した「オリックス・バファローズ」
名将・仰木彬監督は2005年にオリックスと近鉄が合併した「オリックス・バファローズ」の初代監督に就任した。肺がんが再発しながら、合併問題で揺れ動いた野球界を支えるために死力を尽くした。最後の1年を共にしたのは打撃コーチとして復帰した新井宏昌氏。新井氏の証言をもとに振り返っていく連載の第14回は「仰木監督の覚悟」。
2005年、4年ぶりに現場復帰を果たした仰木監督。分配ドラフトで獲得したオリックス、近鉄の選手の性格や力量を見極めながらオーダーを組み、4月は13勝15敗のスタートを切った。グラウンドでは病を隠しながら気丈に振る舞っていたが、シーズンが進むにつれて「試合中に『ちょっと頼むな』と、監督室で休まれることが増えてきた」と新井氏は指揮官の“変化”を感じ取っていた。
当時、新球団の主催試合は大阪ドーム(現・京セラドーム)をメイン本拠地、スカイマークスタジアム(現ほっともっとフィールド神戸)を準本拠地として使用。神戸で試合が開催される時の行き帰りは、新井氏が運転する車の助手席に仰木監督を乗せるのが日課だった。
時が経つにつれて助手席のリクライニングが深くなり「ちょっと寝かせてくれ」
神戸に向かう車中で他愛もない会話やチーム状況などを話していたが、徐々にそれは無くなっていった。当初、助手席のシートは普段通りの傾きだったが、時が経つにつれてリクライニングが深くなり、最終的にはフルフラットまで変化していった。
「これまでの闘病生活も知っていましたが、監督を引き受けられ、体調は良くなっていると思っていた。ですが、試合を重ねるごとに容体は悪化していった。車の中でも『ちょっと寝かせてくれ』と。静かに起こさないように運転しながら『監督、球場に着きましたよ』と、会話するだけになっていた」
試合中にベンチに腰を掛け、動けない姿も目立つようになった。また、西武ドーム(現ベルーナドーム)での試合では、球場の出入りで使用する急な階段を自力で上がることができなくなっていた。センター後方の搬入口に車を付け、チームバスとは別に宿舎に帰ることもあったという。
合併球団初年度はリーグ4位でフィニッシュ「結果的に何もできなかった」
チームは7月に11勝7敗と初めて勝ち越しに成功したが、その後は失速し、最終的にはリーグ4位でフィニッシュした。合併球団の初年度は首位ソフトバンクに21.5ゲーム差と大きく離される結果に。相手の相性やデータを駆使し戦略を立てる“仰木野球”は、合併球団初年度のチームに上手く浸透させることはできなかった。
過酷な1年を過ごした仰木監督も、体力の限界を理由に1年で退任。合併問題を経て誕生した新球団を守るために、命を賭けた指揮官の挑戦は終わりを迎えた。
「なんとか支えようと思っていたが、結果的に何もできなかった。同じポジションでオリックス、近鉄の両チームのレギュラーが重なったために、オーダーを作っていく我々も、起用される選手も戸惑いの1年だった。チーム作りの難しさを改めて思い知らされた。まずは選手を知らないといけない。力量、個性を把握することが大事だった。一番、間近で仰木監督のことを見ていただけに、退任発表は驚きもなかった」
仰木監督はその後、球団のシニア・アドバイザーに就任したものの、退任2か月後の12月15日、福岡市内の病院で静かに息を引き取った。近鉄時代は監督と選手として、オリックスでは指導者として名コンビを組んだ新井氏は「指導者として導いてくれたのは仰木監督。感謝しかない」と、恩師との別れを惜しんだ。
2年契約を結んでいた新井氏は翌2006年までチームに在籍して退団。その後、2007年~2008年までソフトバンク、2010年~2012年はオリックスで2軍監督を経験するなどコーチ業を続けた。そんな中、パ・リーグ一筋で数々の名打者を育てた新井氏に目を付けたのが、広島の松田元オーナーだった。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)