Bリーグ京都ハンナリーズの小室昂大、環境面で悩んだ高校時代に転校を経験 昨年12月、大学バスケの象徴的大会であるインカレ…
Bリーグ京都ハンナリーズの小室昂大、環境面で悩んだ高校時代に転校を経験
昨年12月、大学バスケの象徴的大会であるインカレを制し、創立以来初の大学日本一に輝いた白鴎大学。誰もが認める全国屈指の強豪で高校バスケのスターが集う東海大学を撃破して掴んだ栄冠は、バスケットボール界で大きな話題を呼んだ。
白鴎大学のSF(スモールフォワード)として日本一に貢献した小室昂大は、インカレ終了から間もなく特別指定選手としてBリーグの京都ハンナリーズに加入。19試合に出場し、2022-23シーズンの契約継続が発表された。小室はプロチームとの契約を「B1のチームに入れるなんて奇跡に近い」と語ったが、なぜそのような言葉で表現したのか。それは大好きなバスケットボールが嫌いになり、挫折した高校時代があったからだ。(取材・文=笠川 真一朗)
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栃木県大田原市に生まれた小室は、バスケ一家の家庭で育った。姉の敦美は現在、高校女子バスケの強豪、アレセイア湘南高で指揮を執っている。小室は小学校低学年の頃からリンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)のスクールでバスケットボールの基礎や楽しさを学び、競技人生をスタートさせた。中学では「全国で戦いたい」と栃木県内の強豪・宇都宮市立雀宮中学校へ進学。母と2人で宇都宮市内に引っ越し、バスケのために実家を離れた。
熱心な家族の協力と期待に応えたくて、競技に取り組む。将来はプロ選手として活躍することが夢だった。全国大会に出ることはできなかったが、「関東大会に出たり、それなりの成績を残せたので、いろんな強豪校から推薦の話が来ていました」と、その実力は認められる存在だった。
数ある誘いの中から、創立されて間もない新潟県の開志国際高校に進学を決めた。入学すれば、この学校の2期生にあたる。実績のある強豪校ではなく、まだ歴史の浅い学校に進学を決めた理由は、バスケ部の総監督が富樫勇樹(千葉ジェッツ)の父、富樫英樹氏が務めていることが大きな要因だった。富樫総監督は新潟県新発田市立本丸中学校を率いて2回の全国大会優勝、U-16日本代表のヘッドコーチ(HC)としてアジア3位入賞を果たすなど、バスケ界を牽引する日本屈指の名将だ。そんな名将の下、小室は大きな志と希望を抱いて新潟での高校生活をスタートさせた。
高校1年生の終わりに持ち始めた違和感
入学後からすぐに試合に出場するなど、順調な活躍を見せた。しかし1年生の終わり頃、今までなかった違和感を徐々に持ち始める。
「バスケットボール以外に何もできない環境がとにかく息苦しかったですね。『バスケ1本!』みたいな生活で、遊ぶ場所もなく、ただひたすらバスケをするだけの毎日で息抜きがまったくできませんでした。その極端な環境が自分に合っていなかったと思います」
苦しんだのは、それだけではなかった。
「監督にかなり怒られましたね(笑)。最初から試合に出させていただいたりして期待されている分、そこでも追い込まれました。期待を込めて厳しく指導してくださっていることに当時の自分は気付いていなかったですし、そこまでの余裕がなかった。真逆のことを思っていたというか、厳しくされるのが嫌で、頑張ることができなかったです。完全に滅入りました」
限界を感じ、2年生になる前の時期に寮を飛び出し、栃木へ帰った。当時を振り返る小室は、自分の話をどこか少し他人事のような雰囲気で話す。
「本当に嫌で嫌で仕方がなかったんです。自分でも不思議ですが、あまり当時の記憶がありません。バスケが大嫌いになりましたし、記憶が無くなるくらい嫌なことだったんだと思います。退学する時はプロに行きたいとか、そんなことは頭にもなかったですね」
幼い頃からの「プロ選手になる」という目標は小室の中から完全に消え去り、むしろバスケが嫌いになっていた。
誤解を招かないように一つ追記すると、小室は成人になったタイミングを機に開志国際高校へ行き、総監督に挨拶と近況報告をするなどして談笑を交わした。両者の間にわだかまりはない。
編入先で知った遊び感覚のバスケットボール
開志国際を退学し、宇都宮短期大学附属高校への編入が決まった。「普通の高校生になりたかったです。バスケットボール部に入ることは考えてなかったですね」。そう振り返るが、編入試験の結果が奮わず、学校との面談で「バスケットボールを続けるなら……」と編入のための条件を加えられた。
「転校できるなら、なんでも言うことを聞こうと思いました(笑)。とにかく転校したかったです」
不本意ながらバスケットボール部に入部する形となったが、苦しく感じていた環境から解放された生活をとにかく楽しんだ。
「最高でしたね、本当に全部が楽しくてキラキラしていた。高校生としての学校生活が楽しかったからか、部活も思いのほか楽しくて、バスケを嫌いになったわけじゃないんだと安心しました。期待で追い込まれることもないですし、バスケそのものが楽しかったです」
チーム自体のレベルは開志国際に比べるとかなり劣っていたが、チームメートの人の好さや優しさに救われた。
張り詰めた雰囲気での練習環境からガラリと変わると、プレーにも変化が現れた。
「心に余裕ができて、少し遊び感覚のプレーができたのは大きかったです。その半面、周りのレベルが落ちたことで調子に乗りましたし、自分のレベルが落ちていることにも気付いていたので、プロに行くとかそういう気持ちはもうなかったです」
3ポイントシュートが決まれば、ダンクも決まる。気持ちの良いプレーはできていた。しかし、かつて真剣にプレーしていたからこそ、自分が今いる位置や現状が理解できた。高校での最高成績は県ベスト4。瞬く間に小室の高校バスケは終了した。
高校で目立った成績を残せなかった小室は全国的に無名の存在だったが、関東圏にある2つの大学から誘いを受けた。1つは関東1部の白鴎大学、2つ目は関東2部の江戸川大学だった。
「どちらに行くかすごく悩みました。普通に考えれば、誰もが1部の白鴎大学に行くと思います。でも僕の場合は一度高校を辞めているので、白鴎に入っても最後までやり切れるか不安だったんです」
最後の挑戦、白鴎大学への進学を決意
苦渋の選択の決め手になったのは、当時、白鴎大学でヘッドコーチを務めていた落合嘉郎氏の存在だった。落合氏は現在、来季B1リーグに昇格した仙台89ERSでアシスタントコーチを務めている。落合氏は小室が小学生の時に通っていたリンク栃木ブレックスのスクールの講師だった。
「バスケの楽しさは落合さんに教えていただきました。高校を辞めた時も心配してくださったり、ずっと気にかけていただいていた。僕にとって落合さんはすごく大きな存在です。声をかけてもらえたのは本当に嬉しかったです」
そして腹を括る。
「よくよく考えたら、高校を辞めた当時はどん底でしたけど、その後は元気に生きています。その経験のおかげで、失敗してもなんとかなると開き直ることができました。それにバスケットボールがない人生は自分にとって駄目な気がしましたし、落合さんとのご縁もある。最後の挑戦だと思って白鴎大学に行くことを決めました」
不安を抱えながらも覚悟を持って白鴎大の門を叩くと、想像以上にチームの雰囲気が小室に合っていた。フランクな上下関係、意識高く自主練習を行う同期にも恵まれ、自立した環境が居心地良く感じられた。しかし、自分のプレーがまったく通用しないことを思い知らされる。大学バスケはレベルが高かった。
「高校でさぼっていた分のツケが回ってきたと思いました。得点できない、ディフェンスもできない、フィジカルの面でまったく歯が立たない。マイナス思考でプレーしていましたね」
そして入学して早々の6月にHCの落合氏が仙台89ERSと契約し、白鴎大学を去ることになった。アシスタントコーチを務めていた網野友雄氏がHCに就任。自分のプレーにまったく手応えを感じていない小室だったが、入学後から常にAチームに帯同していた。光るものがあったのだ。3年生になるとシックスマンとしてインカレで3位の結果を残すなど徐々に頭角を現したが、それでも手応えを感じることができなかった。
HCの一言でようやく本気になれた大学バスケ生活
なぜ手応えを感じなかったのか。それは自分自身の欠点に気付きながら、それを改善せずに見過ごしていた自分への甘さを理解していたからだ。
「楽しいことを優先している自分がいて、練習中におちゃらけたり、ふざけていたりしていました。他にもそういう選手がいて、人に流されて。今、レバンガ北海道にいる同期の松下(裕汰)はずっと試合に出ていたし、自主練習もすごくしていました。それを見て悔しいと思っているのに、それでも頑張ろうとはしていなかったんです」
そんな小室の目を覚ましたのが、網野HCの一言だった。「自分のことだけを考えろ」。その一言に突き動かされた。
「人に流されて群れていると、バスケットボール選手としての本質的な成長ができないことに気付きました。自分のために頑張ることが結果的にチームの成長に繋がります。マイナスになることは切り捨てて、ラスト1年しかない大学生活をしっかりやり切ろうと。網野さんのあの一言は本当に大きかったです」
それからは何事も自分の成長のために時間を使った。自主練習を重ね、日常生活でも丁寧に生きるようになった。
「人の努力を見ているだけの人間だったんですけど、同期の松下、角田(太輝/現・佐賀バルーナーズ)とか、彼らのことは本当に尊敬していました。だからこそ本当の意味で一緒に戦いたかった。そのためには、自分のやるべき練習を積み重ねるしかなかったです」
基本となるシューティング練習から、課題であったドライブからのフィニッシュの練習など、チームから求められている部分と自分の強みの部分の両方を磨いた。ディフェンスの上手な後輩に歩み寄り、自らコツを学ぶこともあった。
「今まではそんなことがなかったんですけど、気付いたらそうなっていました。人からも変わったと言われましたし、プレーでも結果が出るようになりました。チームのみんなと成長している実感があって自信に繋がりました」
4年生秋のリーグ戦では東海大学や他の強豪チームを相手に、練習していたドライブからの得点ができるようになった。そして再びプロの舞台を目標に立て直す。網野HCから「プロに行ってみないか?」と声をかけられたのも自信になった。
そして迎えた昨年12月のインカレ。白鴎大学は必死のチームプレーで見事に優勝に辿り着いた。小室もチームに貢献するプレーを見せたが、本人は納得しなかった。
「優勝は嬉しかったですし、インカレはとても楽しかったです。でもそれだけじゃありません。決勝では5ファウルで退場になりましたし、自分の動きが全然できませんでした。緊張もしていましたね。それに比べて周りは自分の仕事を冷静にしっかりと遂行していて、『こいつらすげぇ』と思いました。もっと努力しないと、ここから先は通用しないと改めて感じました」
日本一になっても満足がいかない。嬉しくも悔しい大学バスケが幕を閉じた。
諦めていたBリーグへ、渡邉拓馬GMが評価した人間力
インカレ終了からわずか5日後、小室の京都ハンナリーズ加入のニュースが発表され、早速チームに合流。一度夢を諦めた男がB1のコートに立った。「本当に光栄でした。奇跡に近いです。下手したらバスケットボールを辞めていたかもしれない人間なので」。感慨深そうに話す姿が印象的だった。
京都ハンナリーズのチーム編成を担当している渡邉拓馬GMに契約に至った経緯を聞くと、「小室が醸し出す不思議な魅力ですかね。サイズやスキルではなく『人と人を繋げるような選手が必要』という面で目に留まりました。チームのためにひたむきにプレーし、自己犠牲を払える人材。一瞬の隙を突いた縦のドライブとダンク。大半の若者が目指すドリブル中心のスタイルとは違うところに魅力を感じました。プレースタイルと人間性はイコールという自分の中での考え方もあり、彼が持つ人間力が最大の長所だと評価しました」と答え、まさに小室が白鴎大学で網野HCやチームメートから吸収し、成長した部分が評価されていた。京都ハンナリーズは怪我人が続出するなど苦しい状況が続いていたが、小室は19試合に出場。積極的なディフェンスなど、来季への期待を抱かせるプレーを見せた。
しかし本人は「自分はまだまだB1で通用するような選手じゃない」と語る。実際に満足のいく成績を残せていなければ、自身の魅力もまだまだ発揮できていない。しかし、どんな相手にも恐れることなく果敢に向かっていくハートの強さがある。
シーズン中の3月に行った取材で、小室から聞いた言葉を思い出した。小室は自身のプレーの物足りない部分をよく理解し、受け止めている。
「泥臭いディフェンスの部分に意識を高く持って取り組みます。極端に言うと5ファウルしても別にいいくらいの気持ちです。僕の代わりはたくさんいるので。だから、とにかく貪欲に。そうしないとプレータイムも信頼も得られないので。怖さなんかありませんし、ビビることもありません。そんな気持ちじゃ、この世界では生き残れない。引いたら終わりだと思ってます」
言葉や表情から、確かな熱意が感じられた。続けて小室は言う。「僕は高校を辞めたり、編入したりで家族やいろんな人に心配と迷惑をかけました。活躍して恩返ししたいという気持ちが強いです。チームとしても昨年は14勝43敗と負け続けましたが、これは絶対に成長の糧になります。結果が出てないからといって下を向く必要はないです。とにかく前を向いて、すべての面で成長していきたいです」と成長を誓った。
同じ境遇の部活生へ「自分だけ見てればいい」
最後に「もし自分と同じような悩みや境遇に苦しんでいる人がいたら何を伝えますか?」と小室に問いかけた。
「高校を辞めた時、周りの人にもSNSでもいろいろと言われました。でも僕は、開志国際から中途半端に逃げたわけではありません。まずは自分の意志で真剣に取り組んで、それでも駄目だったから辞めました。真剣にやって駄目なら仕方ないと思うんです。まずは全力で取り組まないと、自分にとって本当に必要か、必要じゃないのか分かりませんから。
高校を辞めたとしても後になればなんてことないですし、そこで嫌な思いをした分は必ず強くなれます。だから僕はもう怖いことがありません。それは失敗とか挫折があったからです。周りの目や印象が気になっても吹っ切れたらいいと思います。人の言うことばかり気にする必要もありません。それこそ僕が網野さんに言われたように、『自分だけ見てればいい』と思います」
心が折れて夢を諦めても、その気になって立ち上がればプロになれる。プロで活躍できる。小室は今後の自身のキャリアで、その姿を示していく。(笠川 真一朗 / Shinichiro Kasakawa)