「日韓W杯、20年後のレガシー」#24 2002年大会の記憶を訪ねて~「宮城」後編 2002年日韓ワールドカップ(W杯)…
「日韓W杯、20年後のレガシー」#24 2002年大会の記憶を訪ねて~「宮城」後編
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
史上初の2か国共催となった2002年大会、日本でW杯の熱狂に包まれた開催地は10か所だった。多くのスタジアムが新設され、大会後にはJリーグをはじめ各地域のサッカーの中心地となったが、そこにはどんな“文化”が育まれたのか。日頃から全国津々浦々の地域クラブを取材する写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、日韓W杯から20年が経過した今、4か所の開催地を巡る短期連載。「宮城」の後編では、日本代表の“終戦”の地となった宮城スタジアム(キューアンドエースタジアムみやぎ)を訪れた。決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れ、立地条件の悪さから「負の遺産」とも言われてきたスタジアム。20年後の現地を歩くと、他の会場とは少し異なる存在意義が見えてきた。(取材・文=宇都宮 徹壱)
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「宮城スタジアムでのラウンド16は、この時は強豪と見られていなかったトルコに敗れたこと、しかも雨の中での試合だったこともあり、あまり気分の良いものではなかった。むしろグループステージを2位通過して、神戸でブラジルに敗れていたほうがシナリオとして良かったのかもしれない」
今から20年前の2002年に、日本と韓国で開催されたW杯。当時、日本代表を率いていたフィリップ・トルシエは、「THE ANSWER」のインタビュー取材に、このように述べている。あの試合をリアルタイムで観ていた、あるいは雨の宮城スタジアムで応援していた者なら「何を今さら」と脱力するのではないだろうか。
2002年大会の10会場のうち、東北を代表するホストシティとなったのが、仙台市を県庁所在地とする宮城県。県民にとって6月18日は、まさに悪夢のような一日となった。日本代表の快進撃が宮城スタジアムで終了したと思ったら、仙台でキャンプを張っていたイタリア代表もテジョンでのラウンド16で、韓国代表を相手に実に不可解な敗北を喫してしまったからだ。
さらに間の悪いことに、日本VSトルコの試合は、宮城会場における大会最後の試合。そのため、宮城スタジアムには「終戦」のイメージがべっとりこびりついてしまった。サッカーファンの間では、今でも「雨の宮城スタジアム」「宮城スタジアムでのトルコ戦」と言えば、苦々しい思い出として共有されている。
3月の地震でメインスタンドの2階席が陥没
思えば宮城スタジアム自体、存在意義の薄さが常に付きまとう施設であった。4万9133人という収容人数は東北最大。しかしながら、県内のJクラブであるベガルタ仙台は、アクセス抜群で球技専用のユアテックスタジアム仙台を本拠としていた。最寄り駅から「徒歩59分」というアクセスの悪さもネックとなり、大会後に宮城スタジアムが顧みられることは、ほとんどなかったのが実情である。
「日本代表が敗れた場所」とか「アクセスが最悪」とか「ユアスタがあるのに」とか、ネガティブな評価ばかりが聞こえてくる宮城スタジアム。この状況を地元の人々は、どう感じているのだろうか。そして宮城スタジアムは、本当に「負のレガシー」でしかないのだろうか――。そんな問題提起からスタートした、今回の宮城への旅。しかし実際に現地を訪れてみると、意外な事実が浮かび上がってきた。
仙台駅からJR東北本線で3つ目の利府駅に到着。改札を出ると、日本代表のジャージを来た紳士が、私を迎えてくれた。今回の取材の証言者である村松淳司、61歳。東北大学教授の村松は、同大学の多元物質科学研究所に奉職する一方、週末は市民スポーツボランティア「SV2004」の副代表として、さまざまなスポーツイベントの会場で活動している。早速彼の車に乗せてもらい、宮城スタジアムを目指した。
「実はこの間の地震で、スタジアムもかなり損害が出てしまって、今は中には入れないんですよ」と村松。3月16日23時36分、福島県沖を震源とする震度6の地震によって、宮城スタジアムはメインスタンドの2階席が幅30メートルにわたって陥没。中高生の陸上の東北大会は、会場の変更を余儀なくされた。
実は村松は、W杯以前から宮城スタジアムと向き合ってきた。利府町に自宅を建てたのが2000年。ちょうどスタジアムがオープンしたタイミングである。
「こけら落としが6月11日のキリンカップ(日本vsスロバキア)。その時もボランティアとしてスタジアムにいました。後半だけ見ることができたので、中村俊輔がFKを直接決めたのも覚えています。ただ、地元にスタジアムができたことには、それほど感慨はなかったですね。サッカーを見るんだったら、ユアスタのほうが断然いいって思ったくらいで(苦笑)」
W杯後「さっさと壊したほうがいい」と考えた理由
2年後に行われたトルコ戦は、運悪く教授会が入ってしまった。終了後「1点差だったら追いつくだろう」と車を走らせたら、お通夜のような表情で利府駅に向かう人々の姿を見て「ああ、負けたんだな」と察したという。
かくして、宮城県でのサッカーの祭典は終わったが、新たな問題がクローズアップされる。それは「大会後の宮城スタジアムをどうするか」──。当時の村松の考えは「さっさと壊したほうがいい」だった。
「壊すとなると数十億円かかりますが、残すとなると維持費だけで年間3億円。だったら『さっさと壊したほうがいい』ということを言い続けましたし、ホームページにも書きました。そうしたら当時の浅野(史郎)知事から、いきなり電話がかかってきまして(苦笑)。スタジアムの利活用に関する委員会に、僕も加わることになりました」
結論として、宮城スタジアムは存続されることとなった。イベント開催には使い勝手が悪いが、地域住民に活用してもらうのであれば十分に存在意義がある──。そのように判断されたのである。2003年からは、県の陸上協会が宮城スタジアムに入ったことで、宮城スタジアムは「東北を代表する陸上競技場」という地位を確立する。
そんな宮城スタジアムが、W杯後に全国的な注目を集める機会が2度あった。すなわち、2011年の東日本大震災と2021年の東京オリパラ。未曾有の震災の直後には、被災地支援の拠点の一つとして機能。コロナ禍の中で行われたスポーツの祭典の際には、男女サッカー競技の会場となり、例外的に観客を入れて開催されている。
震災の時も東京オリパラの時も、村松はボランティアとして宮城スタジアムに詰めていた。スタジアムの周囲を散策しながら、当時をこう振り返る。
「震災の次の日には、あちこちから到着した消防車や救急車が運動公園に集結しました。ヘリコプターの離発着だったり、海外からの支援活動のベースだったり、それと遺体収容にも使われましたね。僕はボランティアのキャプテンとして、ご遺族の案内もやっていました。東京五輪については限定的でしたけれど、選手と観客とボランティアの交流ができたのは宮城会場だけ。僕自身、とてもいい思い出になりましたね」
3月の地震被害で、宮城スタジアムは当面の間は閉鎖。それ以前はサッカーや陸上の大会のほかに、小中学校の運動会や個人単位の利用にも門戸を開いてきた。運動会の時は、わが子の勇姿が大型スクリーンに映し出されるので、父母には大好評。また個人で利用する場合、大人200円、小人100円という破格の価格設定となっていた。
地域住民がスポーツを楽しむ場として機能
ネックとされてきたアクセスの悪さも、自家用車での移動が当たり前の地域住民にはなんら問題はない。大規模イベントでなければ、渋滞に巻き込まれる心配もない。宮城スタジアムは、地域住民がスポーツを楽しむ場としては、今でも十分に機能している。W杯スタジアムの「余生」としては、これはこれで“あり”なのかもしれない。
かつては「さっさと壊したほうがいい」と主張していた村松も、20年という月日をともに歩んできた宮城スタジアムには、ひとかたならぬ愛着を感じている様子。そんな彼に、2002年W杯がこの地に残したものについて、最後に語ってもらった。
「まずボランティア文化が定着したこと。大会後、ベガルタだけでなく、楽天イーグルスやBリーグの仙台89ERSにも、ボランティアが付くようになりました。プロ野球界でのボランティアは前例がなくて、他球団も真似しましたけれど、今も続いているのは楽天だけです。それと県民のスポーツ意識が高まったこと。これだけ気軽に、スタジアムを利用できるようになりましたからね。ここの子供たちは、本当に贅沢ですよ(笑)」(文中敬称略)(宇都宮 徹壱 / Tetsuichi Utsunomiya)
宇都宮 徹壱
1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。