サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。サッカージャーナリス…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。サッカージャーナリスト・大住良之が今回つづるのは、「最後の一座へ、地球を半周して」。
■アマチュアチームの奮闘
1958年1月15日にイスラエルのラマトガン・スタジアム(テルアビブ郊外)で第1戦が行われた。ウェールズ代表はキプロスの英軍空軍基地からの特別機でテルアビブに向かったが、ボールを積み忘れ、試合の準備はボールなしのトレーニングに限られた。
全員がプロのウェールズに対し、イスラエルはアマチュア。ウェールズの圧倒的な優勢が予想されたが、5万5000人の熱狂的なサポートに支えられたイスラエルが奮闘し、ウェールズの先制点はようやく前半38分、イボール・オールチャーチの得点だった。後半18分にデイブ・ボーウェンが追加し、ウェールズが2-0で先勝した。
3週間後にカーディフのニニアン・パーク・スタジアムで行われた第2戦で、イスラエルがさらに奮闘する。鼻骨を折りながら好セーブを連発するGKヤーコフ・ホドロフの活躍で後半なかばまで失点なしに抑えたのだ。ウェールズがようやくホドロフの守るゴールを破ったのは後半31分。初戦でも先制点を決めたI・オールチャーチが個人技でゴールに迫り、角度のないところからイスラエル・ゴールの天井に突き刺した。そして4分後には、落胆したイスラエルにとどめを刺すように、クリフ・ジョーンズが2点目を決め、第1戦と同様、2-0のスコアで試合を終了させた。
■最初で最後の英国4協会そろい踏み
ウェールズはワールドカップ初出場。今回の「欧州プレーオフ」の勝利で、そのとき以来、実に54年ぶり2度目の出場となる。1958年大会、ウェールズの出場は、欧州予選第1組イングランド、第8組北アイルランド、そして第9組スコットランドと、それぞれの組を勝ち抜いたチームとともに、「英国4協会」が初めてワールドカップでそろう大会となった。ちなみに、今日に至るまで、この「そろい踏み」は、このとき1回きりである。
後にも先にもただ1回の「ワールドカップ予選敗者復活戦」で出場権を獲得したウェールズだったが、スウェーデンの舞台では第3組にはいってハンガリー、メキシコ、スウェーデンと3連続引き分け。日を改めて行われたハンガリーとの2位決定戦を2-1で勝ち、準々決勝に進んだ。そして最終的に初優勝を成し遂げるブラジルを相手にしてもよく戦い、0-1で敗れる。ブラジルの決勝点を決めたのは17歳の少年。ペレのワールドカップ初得点だった。
■ユナイテッドを襲った悲劇
1958年ワールドカップ予選の大陸間プレーオフは、思いがけない運命のいたずらももたらした。ウェールズ代表のジミー・マーフィー監督は、イングランドの強豪、マンチェスター・ユナイテッドの助監督でもあった。ユナイテッドは、このシーズンの欧州チャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)で準々決勝に進み、2月5日にレッドスター・ベオグラードとの第2戦を戦うことになっていた。
ウェールズ代表にとっては急きょ決まった大陸間プレーオフ。マーフィーはマンチェスター・ユナイテッドのマット・バスビー監督と相談し、ウェールズ代表にとって史上初のワールドカップ出場を確実なものとすべく、クラブを離れた。そしてベオグラードで3-3の引き分けにもち込み、準決勝進出を決めたユナイテッドは、翌2月6日、給油のために立ち寄ったミュンヘン空港で離陸に失敗し、チームの大半を失い、バスビー監督も瀕死の重傷を負う。
カーディフからマンチェスターに戻ったマーフィーはユースの選手を中心にチームを立て直し、バスビー監督が復帰するまで5か月間にわたって指揮をとった。そして助監督に戻った後、1970年代以降はクラブのスカウト部門を率い、1989年に79歳で亡くなるまで、ユナイテッドの未来をつくるため、若い才能の発掘に力を注いだ。
史上初めて行われたワールドカップ予選の大陸間プレーオフは、48歳で終わるかもしれなかったマーフィーの人生にさらに30年間以上の時間を与え、その間の仕事を通じて、マンチェスター・ユナイテッドというクラブにとどまらず、英国のサッカー全体により深いスポーツの文化をもたらすという意味もあったのかもしれない。